大洲の視点 ・ 出典: 広報おおず「きらめき大洲21」2005年1月号 2005年1月の資料 ・ 約9分で読める
いまの大洲市って、じつは20年ちょっと前にできたんだよ。
4つの市と町と村がひとつになったの。よかったかどうかは、いまも地域によって答えがちがうんだって。
3行でいうと調べた資料 6本
大洲市役所で「広報おおず」の古い号をめくっていたら、2005年1月号が出てきた。当時の名前は「きらめき大洲21」である。
表紙に「最終号」と書いてある。何の最終号かと思ったら、旧・大洲市としての広報誌の最終号だった。
20年前の広報紙は、いまも市役所に残っている。この記事で引く号も、そこで手に取ったものである。
大洲市の合併の話に入る前に、そもそも「平成の大合併」とは何だったのかを整理しておきたい。
平成11年(1999年)、地方分権推進委員会の勧告をきっかけに、国は全国規模で市町村合併を推進する方針を打ち出した。
当時3,232あった全国の市町村は、平成22年(2010年)には1,727まで、ほぼ半減した。
国が合併を後押しした最大の理由は「行財政基盤の強化」。地方税収の伸びが鈍る一方で、人件費・扶助費・公債費といった義務的な支出は増え続けており、小さな自治体ほど単独では立ち行かなくなる、という危機感があった。
専門部署や専門職員を置けるだけの体力を自治体に持たせ、国からの地方分権(権限や仕事を国から地方に移すこと)の受け皿にする、というのが建前上の狙いだったという。
国はこの合併を進めるために、合併に伴う建設事業の費用の7割を実質的に国が負担する「合併特例債」という仕組みや、合併後10年間は合併前の自治体それぞれが存在するとみなして地方交付税を計算し、その後5年かけて段階的に通常の算定額へ縮小していく「合併算定替」という優遇措置を用意した。
つまり合併直後の地方交付税が手厚いのは、あくまで最初の10~15年間だけの時限的な優遇措置であって、恒久的に有利になるわけではない、という点は見落とされがちだが重要なポイントだと思う。
愛媛県は特にこの流れが顕著で、平成15年(2003年)の新居浜市・別子山村の合併を皮切りに、それまで70あった市町村が、最終的に20市町(11市9町)まで減った。
減少率にすると71.4%で、全国平均(43.6%)を大きく上回り、広島県と並ぶ「合併先進県」と呼ばれているという。
大洲市・長浜町・肱川町・河辺村の合併も、この全国的・県内的な大きな流れの中の一つだった。
平成17年(2005年)1月11日、大洲市・長浜町・肱川町・河辺村の1市2町1村が合併して、新しい「大洲市」が誕生した。
この号はその9日前に発行された、いわば「旧大洲市、最後のあいさつ」。
市長と議会議長、それぞれの新年のあいさつが載っていて、「新『大洲市』が現在の大洲市同様、個性豊かな市となりますよう」という言葉が印象的だった。
この合併は、4つの自治体がいったんすべて解散し、まったく新しい「大洲市」として生まれ変わる「新設合併」という方式で行われた(旧・長浜町や旧・肱川町が大洲市に「編入」されたわけではなく、形の上では対等な合併だったことになる)。
規模の差はかなり大きく、合併直後の新・大洲市全体の人口が52,000人超だったのに対し、旧・長浜町は9,208人、旧・肱川町は約3,200人台(2000年国勢調査時点で3,211人)、旧・河辺村は1,293人(2004年12月時点)。
単純に計算すると、旧・大洲市そのものが全体の7割以上を占めていた計算になり、規模だけで見れば「対等」というより「大洲市が中心、周辺3町村が合流」に近い合併だったこともうかがえる。
2004年の1年を振り返る特集も組まれていて、その年は「えひめ町並博2004」の開催と大洲城天守閣の復元完成で観光的には賑わった一方、度重なる台風で肱川流域が大きな水害を受けた年でもあったらしい。
治水対策の重要性を再認識した、と市長のあいさつにも書かれている。
総務省や全国町村会などの検証を読むと、合併のメリットとしてよく挙げられているのは大きく3つ。
①専門部署・専門職員を置けるようになった(小さな役場では手が回らなかった分野に専任の担当者を配置できるようになった)。②公共施設の重複整備を避けられた(隣接する町がそれぞれ同じような施設を作らずに済むようになった)。③財政が行き詰まりかけていた自治体でも、福祉や子育て支援のサービスを維持・拡充できた。この3点だ。
大洲市の場合も、4つの自治体がそれぞれ持っていた総務・福祉・建設などの部署を一本化することで、 理屈の上では専門性の高い職員を配置しやすくなったはずだし、肱川流域という一つの水系を、旧町村の 境界を越えて一体的に治水・整備できるようになった、というのも合併の効果として挙げられそうだ。
一方、デメリットとしてほぼすべての検証で共通して指摘されているのが「行政と住民の距離が遠くなった」という点。
役場の機能が本庁(大洲市街地)に一本化されたことで、周辺部の住民ほど、ちょっとした手続きのたびに遠くまで足を運ぶ必要が出てくる。
さらに財政面でも、見落とされがちな落とし穴がある。合併から10~15年が経つと、さきほど紹介した「合併算定替」という優遇措置が段階的に縮小され、最終的には合併しなかった場合と同じ算定方法に戻っていく。
つまり合併直後にもらえていた手厚い交付税は時限的なものにすぎず、10年、15年と経つうちに、その分の財源は目減りしていく。
全国町村会に載った今井照・福島大学教授(当時)の論考では、この特例措置が切れる合併15年後に、合併した自治体の地方交付税は「少なくとも3割程度は減額される」と試算されていた。しかもその時期は、合併特例債の償還のピークとちょうど重なるという。
合併した年に喜んでいたことの一部は、実は「期限付きのボーナス」だった、ということになる。
「あれから20年、今の大洲はどう見えているだろうか」という疑問が気になったので、少し調べてみた。
松山大学の市川虎彦教授が発表した「20年を経た『平成の大合併』の評価と教訓」という論考に、大洲市を対象にした住民意識調査(2009年7月実施、有効回答655票)の結果が紹介されていた。
合併について「よくなかった」と答えた住民の割合は、地域によって大きな差があったという。
旧・大洲市エリアでは「どちらともいえない」が最多(55.1%)だった一方、旧・長浜町エリアでは「よくなかった」が20.2%、旧・肱川町・旧・河辺村エリアではなんと44.7%にのぼった。
つまり、合併の中心だった旧・大洲市の住民は良くも悪くも実感が薄い一方、周辺部だった山あいの旧町村ほど「合併しなければよかった」という感覚が強く残っている、ということになる。
なぜこれほど地域差が出るのか。理由は、さきほど触れた「行政と住民の距離」に集約されると思う。
旧・大洲市エリアの住民にとっては、役場が本庁のまま変わらないので、合併の前後で暮らしの実感があまり変わらない。
一方、旧・肱川町や旧・河辺村の住民にとっては、それまで歩いて行けた自分の町の役場が「支所」になり、重要な決定は本庁まで出向かないと進まなくなる。
加えて、旧町村の中心部にあった商店や公共施設は、役場機能の縮小とともに人の流れが減り、求心力を失いやすい。
「小さな中心地が空洞化する」という、合併に伴う典型的な現象が、肱川町・河辺村エリアでも起きていたと考えられる。
この論考には、もう一つ印象的なエピソードが載っていた。2018年の西日本豪雨のとき、旧・肱川町にある道の駅の駅長が「市町村合併していない方が、短時間にできたのではないか」と語ったという。
災害対応のような緊急の判断でも、本庁(大洲市街地)への確認・承認の手続きを挟む分だけ、現場の対応が遅れがちになる。
合併によって役場が遠くなる、というのは制度論としてよく指摘される話だが、実際に肱川が氾濫した現場からこういう声が出ている、というのは重みが違う。
合併直後の2005年時点で52,000人超だった大洲市の人口は、2020年の国勢調査で40,575人、統計書に載っている令和6年(2024年)の推計人口ではさらに37,638人まで減っている。
20年ほどで1万4,000人以上、率にすると3割近くが減った計算になる。
合併によって行政のスケールメリットは得られたはずだが、それでも人口減少そのものを止める力にはならなかった、というのが数字が示す現実だと思う。
最後に、なるべく中立的な視点で「合併してよかったのか」を、国・県・旧大洲市という3つの立場から 整理してみる。
国の立場から見ると、当初の目的だった「行財政基盤の強化」は、限定的にしか実現しなかった、という評価が多い。
全国町村会がまとめた検証記事では、合併による財政効果(人件費削減など)は地方財政計画全体からすると数%程度の「誤差の範囲」にとどまる、という研究者の指摘も紹介されていた。
市町村数を半減させるという数字上の目標は達成できたが、それがそのまま「行財政の効率化」につながったかというと、評価は割れている、というのが実際のところのようだ。
愛媛県の立場から見ると、70市町村が20市町まで整理されたことで、県が広域行政の調整をする上での窓口は大きく整理された。
防災・医療・インフラ整備などを県と連携して進める際、調整すべき相手の数が減ったこと自体は、行政効率という意味ではプラスに働いたと考えられる。
旧大洲市の立場から見ると、面積・人口が拡大し、肱川流域という一つの水系を行政区域の垣根なく一体的に扱えるようになった一方、周辺部だった旧肱川町・旧河辺村の住民からは、2009年の住民意識調査の時点で「よくなかった」という声が4割超あがっていた。市川教授は、合併から20年が経とうとしている今も「合併なんかしなければよかった」という声が聞かれる、と書いている。
中心部の暮らしはほとんど変わらず、周辺部の暮らしは行政との距離が遠くなった、という非対称な結果が、この地域差の正体だと思う。
結論として言えるのは、「効率化」という国が掲げた目的と、「日々の暮らしの実感」という住民側の受け止め方の間には、埋まりきらないズレがあったということ。
そのズレは合併から20年経った今も、住んでいる場所によって違う答えとして残り続けている。
今の大洲市が「合併してできた市」だというのは知識としては知っていたけど、その合併の直前に発行された広報誌を実際に読むと、当時の緊張感というか、期待と不安が入り混じった空気が伝わってくる気がした。
20年経った今、その期待と不安のどちらがどれだけ実現したのかは、住んでいる場所によって、ずいぶん違う答えになりそうだ。
この記事をサイトに掲載した日: 2026/07/25