住民票の人口は37,931人。地区別に見る大洲

冬の山並みと町
冬の山並みと町(撮影: OZU LIFE MEMO)
メモう

大洲市の人口、地区ごとに見るとかなり差があるんよ。

8割以上が旧大洲地区に集まってる。

いちばん人が多いのは、お城の下の喜多だった。

3行でいうと調べた資料 8本

  • 住民基本台帳の人口は37,931人(令和8年3月末)。国勢調査よりさらに少ない
  • 大洲地区だけで8割超。長浜5,185人肱川1,651人河辺470人
  • 大洲市の中でも、人が集まるのは城下の中心「喜多」(6,219人)だった

以前、統計書の人口推移(78,319人→40,575人)の記事を書いたけど、あれは令和2年国勢調査の数字。

もっと新しい「住民基本台帳」(令和8年3月31日現在)を見つけたので、こちらも読んでみた。

それによると、大洲市の総人口は37,931人(男18,357人・女19,574人)、世帯数19,231

国勢調査の数字よりさらに減っていて、集計の時点や方法が違うとはいえ、減少傾向自体は変わらないみたい。

地区ごとの差が、想像以上だった

面白かったのが地区別の内訳。合併前の「大洲」地区だけで30,625人と、全体の8割以上を 占めている。

2005年の合併で加わった長浜地区は5,185人、肱川地区は1,651人、河辺地区にいたっては470人しかいない。

3地域を合わせても市全体の5分の1弱(7,306人・19.3%)で、人口という意味では「大洲地区が主で、長浜・肱川・河辺が 従」という構図がはっきり見える。

地区別人口(住民基本台帳・令和8年3月31日現在)
大洲地区
30,625人
長浜地区
5,185人
肱川地区
1,651人
河辺地区
470人
出典: 大洲市 住民基本台帳 人口・世帯(令和8年3月31日現在)

河辺地区の中でも、大伍(72人)や北平(116人)のように、集落単位で見るとかなり少ない数字の 地域もあった。

合併して1つの「大洲市」になったとはいえ、地域ごとの人口規模の差はかなり大きいんだなと、 数字を見て改めて実感した。

じゃあ旧大洲市の中では、どこに人口が集中してるの?

同じ資料には、大洲地区(合併前の旧大洲市にあたるエリア)をさらに14の「行政区」に分けた 内訳も載っていた。多い順に並べるとこうなる。

  • 喜多 6,219人
  • 平 3,958人
  • 肱南 3,420人
  • 新谷 3,097人
  • 菅田 3,050人
  • 久米 2,403人
  • 肱北 2,147人
  • 平野 1,830人
  • 八多喜 1,429人
  • 南久米 1,084人
  • 三善 731人
  • 大川 600人
  • 柳沢 354人
  • 上須戒 303人

一番多いのは「喜多」で6,219人。大洲地区全体(30,625人)の2割にあたって、2位の「平」(3,958人)と比べても頭一つ抜けている。

大洲市立喜多小学校の住所を調べてみると「大洲市若宮」で、大洲城や大洲市役所にも近いエリア。

旧大洲市の中でも、やっぱり城下町の中心市街地に人が集まっているんだなというのが、この数字から見えてきた。

調べていて面白かったのが、「喜多」という名前の由来。実はこれ、この地区だけの呼び名ではない。

西暦866年(貞観8年)、宇和郡の北部が分立してできた郡の名前がそのまま「喜多郡」で、合併前の大洲市はまるごとこの喜多郡に属していた。

「北」を意味する「きた」に、縁起の良い「喜多」の字を当てたのが由来とされている。

1,000年以上前の郡名が、人口最多の地区名としてそのまま今も残っているというのは、なかなか面白い話だと思う。

正直に書いておくと、「喜多」という行政区の正確な境界線(どこからどこまでか)までは、今回の資料だけでは確認しきれなかった。

中心市街地寄りのエリアだろう、という推測にとどまる部分があることは、あわせて書いておきたい。

表のいちばん下にある地区は、70年前に何人いたのか

この表でいちばん下にあるのは上須戒(303人)柳沢(354人)である。 その上が大川(600人)。3つとも旧大洲市の山あいだ。

この3つが、昔から少なかったのかどうかを知りたくなった。 調べたら、市議会の会議録に残っていた。 平成26年12月の定例会で、議員が昭和29〜30年ごろの数字を挙げている。

当時はまだ「村」だった。大川村、上須戒村、柳沢村である。 その数字と、いまの数字を並べる。

地区昭和29〜30年ごろ平成26年11月末令和8年3月末70年で
大川2,906人871人600人79.4%減
上須戒1,732人486人303人82.5%減
柳沢2,716人575人354人87.0%減
(参考)旧大洲市全体46,816人35,867人30,625人34.6%減

昭和29〜30年と平成26年の数字は会議録から取った。令和8年の数字はこの記事の表と同じ資料である。 70年での減り方は、その2つから自分で計算した。

柳沢は、2,716人が354人になっている。7人に1人も残っていない。 上須戒は6人に1人、大川は5人に1人。 同じ時期に旧大洲市全体は34.6%減だから、市全体の減り方とは、桁が違う話になっている。

当時の議員の言葉も引いておきたい。数字のあとに、こう続けている。

小学校、中学校があって、同級生もたくさんいて、子供の声が響いていた活気があった時代、そして今、学校もなくなった。人口も減った。70代、80代の人が中心に農地を守っている。これは遠い昔の話ではなくて、聞いた話でもなく、我々がこの60年間で体験していることであります

大洲市議会 平成26年12月定例会(2日目)会議録

減り方は、ゆるやかになっていない

ここでもう1つ、気になったことがある。 「もう減りきったから、これ以上は減らない」のではないかということだ。 600人や303人まで来たら、残っている人は動かないのではないか、と。

表の真ん中の列があるので、それが確かめられる。 平成26年11月末から令和8年3月末まで、11年4か月ぶんである。

その間の減り方はこうだった。大川が31.1%減、上須戒が37.7%減、 柳沢が38.4%減11年ちょっとで、3割から4割が減っている。

これが速いのか遅いのかを見るために、1年あたりに直して比べた。 昭和30年から平成26年までの59年間の平均と、その後の11年4か月の平均である。

地区59年間の平均(1年あたり)直近11年4か月(1年あたり)昔と同じペースなら
大川-2.0%-3.2%691人のはず → 実際600人
上須戒-2.1%-4.1%381人のはず → 実際303人
柳沢-2.6%-4.2%427人のはず → 実際354人

この表の数字は、上の3時点の人口から自分で計算したものである。 昔と同じペースで減っていたなら何人になっていたはずかを出し、実際の人数と並べた。

3つとも、実際のほうが少ない。1年あたりの減り方は、 むしろ1.6倍から1.9倍に速まっている。 減りきって落ち着いた、のではなかった。

理由まではこの資料からは分からない。ただ、数の少ない集落ほど、 1軒が抜けたときの割合が大きくなる、という単純な算数はある。 2,700人のうちの10人と、350人のうちの10人では、意味が違う。

市はこの単位を「自治会」と呼んでいて、30ある

この記事の表は「行政区」で分けたものだった。 市議会では、これに近い単位を「自治会」と呼んでいる。

令和7年12月の定例会で、議員が数字を挙げていた。 大洲市には自治会が30ある。そのうち、 令和7年10月末時点で11の自治会が高齢化率50%以上5つの自治会が45%以上だという。

高齢化率50%以上というのは、いわゆる限界集落の定義にあたる。 集落の人口の半分以上が65歳以上で、共同での生活の維持が難しくなる状態を指す言葉だ。 議員はこう言っている。「大洲市の30自治会のうち、約3分の1が限界化し、 限界化予備自治会を加えると約半数の自治会が限界化を迎えることになる」。

ただし、その議員自身が、続けて言葉を選び直している。 限界集落という考え方は1980年代のもので、いまは65歳以上でも元気に集落を支えている人が大勢いる、と。 そのうえで、「64歳以下の若い方が少ないという現実には変わりがありません」と締めている。

なお、この「30自治会」と、この記事が並べた行政区が完全に同じ区切りなのかは、 公開されている資料からは確かめられなかった。 旧大洲市の14に長浜・肱川・河辺のぶんを足すとおおよそその数になる、というところまでである。

この先の推計も、議会で言われている

同じ令和7年12月の定例会で、市長がこの先の数字を答えている。

本市におきましても、2050年の人口は約2万1,300人と合併時の40%になると推計され、特に山間部をはじめとする周辺地域では、限界集落問題も現実味を帯びてきている

大洲市議会 令和7年12月定例会(2日目)会議録

2050年に2万1,300人。 この記事の冒頭に書いた37,931人と比べると、いまの56%である。 24年で、いまいる人の4割以上がいなくなる計算になる。

合併したころの数字も議会に残っていた。平成28年6月の定例会で議員が、 平成17年の合併時は住民基本台帳で約5万2,000人だったと述べている。 そこからいまの37,931人まで、21年で約1万4,000人、27%減った。

この記事で扱った地区別の数字は、その減り方が市内で均等に起きていないことを示している。 旧大洲市が34.6%減の間に、柳沢は87.0%減った。 同じ市の中で、減り方が2倍以上ちがう。

ついでに書いておくと、長浜・肱川・河辺の3地域を合わせた昭和30年の人口は、 市全体の78,319人から旧大洲市の46,816人を引いて3万1,503人になる。 いまは7,306人だから、76.8%減。 冒頭で「大洲地区が8割を占める」と書いたが、70年前はそうではなかった。 4割は、いまの長浜・肱川・河辺に住んでいた。

12年前、市は「消滅可能性都市」と名指しされている

調べていて、もう1つ出てきたものがある。

2014年(平成26年)5月、日本創成会議という民間の会議が、 2040年までに20〜39歳の女性が半分以下に減る自治体を「消滅可能性都市」として 896市区町村挙げた。大洲市は、その中に入っていた。

同じ年の6月の定例会で、市長が答えている。 愛媛県内では大洲市を含む5市8町が分類されたこと、 推計方法には議論の余地があると思うこと、それでも 「報道されました内容は、余りにも想定以上のことで、私どものみならず、 各自治体とも大きなショックを受けられたのではないか」と述べたうえで、 こう続けている。

ただ大洲市という自治体が、推計どおり本当に消滅してしまうかと言えば、それはないだろうと思っております

大洲市議会 平成26年6月定例会(2日目)会議録

同じ年の12月の定例会では、議員が具体的な順位に触れている。 愛媛県の市では、八幡浜市に次いで2番目に大洲市が高く、減少率61.4%だった、と。

あれから12年たった。住民基本台帳の人口は、そのとき(平成26年11月末で4万6,352人)から 37,931人まで、8,400人ほど減っている。 市はなくなっていないが、数字のほうは推計の線の上を進んでいる。

地区別の内訳を見ていて面白いと思ったのは、こういう話に全部つながっていくところだった。 喜多に6,219人いて柳沢に354人いる、というただの並びが、 70年前まで戻すと2,716人だったり、限界集落11という数え方になったり、 2050年に2万1,300人という推計になったりする。 同じ市の中の話なのに、地区の名前を変えるだけで、まったく別の市の話みたいになる。