大洲の視点 ・ 出典: 大洲市議会会議録/愛媛県『えひめの記憶』 ・ 約9分で読める
むかし東大洲に、845人が働く大きな工場があったんよ。
終わらせたのは洪水じゃなくて、そのあとの世界の不景気。
跡地はいま、地元の会社の本社になってる。
3行でいうと調べた資料 15本
東大洲の国道56号沿い、いまはCelco Japanの本社工場がある場所(東大洲1220-1)に、かつて「松下寿」と呼ばれた工場があった。
正式名は松下寿電子工業株式会社 大洲工場。昭和48年(1973年)に操業を始め、最盛期には845人が働いていた。
市内の電機産業の出荷額の98.4%を、この一工場が稼いでいた時代がある。
では、この工場はどこへ消えたのか。「洪水で浸かってなくなった」と語られることがあるが、調べてみると、事実は少し違っていた。
松下寿電子工業は、松下幸之助(パナソニック創業者)に育てられた稲井隆義という人物が四国で興した寿電工・寿電機・寿録音機の3社が、1969年に統合してできた会社だ。本社は高松。のちに本社も愛媛(現・東温市)に移した。
つまり、県外の大企業を呼び込む今風の「企業誘致」とは成り立ちが違う。四国で生まれて四国に工場を広げた、地元発の松下系企業という珍しい形だった。
ただし、大洲への進出は偶然ではなかった。市議会の会議録に、「松下寿電子として昭和48年大洲市企業誘致条例によって誘致をされ」たとの発言が残っている。市が条例を使って引っ張ってきた企業だったのだ。工場用地の造成も、市が関わる大洲住宅協会の事業として行われていたことが、別の議会答弁で説明されている。
作っていたものは時代とともに変わる。大洲工場は当初テレビやビデオの精密部品を作り、やがて輸出用ビデオの部品加工から組立までの一貫体制を持った。会社全体では独自規格「VX方式」のビデオデッキを世に出し、1990年代にはハードディスク駆動装置(HDD)で世界市場に食い込んだ。最後は血糖値センサーなど医療機器へ転換し、この流れがいまのPHC(旧パナソニックヘルスケア)につながっている。
県の記録誌『えひめの記憶』に、昭和57年(1982年)時点の数字が残っている。
従業員は845人で、うち女性約300人は専用バスで通勤していた。大洲市の電機産業の従業員886人のうち95.4%がこの会社。電機の製造品出荷額309億円のうち304億円(98.4%)がこの会社。そして当時、市全体の製造品出荷額の約6割が電機だった。
掛け算すると、市の製造業の半分以上を、実質的にこの一工場が担っていたことになる。
工場のある東大洲は、肱川と矢落川に挟まれた低地だ。
平成7年(1995年)7月4日、梅雨前線の豪雨で肱川の大洲地点は最大流量3,100立米/秒を記録。矢落川左岸の旧堤防から氾濫し、東大洲地区を中心に930戸が浸水(床上768戸・床下429戸)、国道56号も水没した。工場のある一帯はまさに浸水域だった。
「一度浸かって、工場の周りに壁を作った」という話が地元で語られることがある。時期からいえばこの平成7年洪水の後の話と思われるが、正直に書くと、工場自前の防水壁についての公表資料は今回見つけられなかった。確かなのは、この洪水を受けて国の激特事業(激甚災害対策特別緊急事業)に指定され、東大洲の堤防整備が進んだことだ。
そしてもう一つ確かなのは、工場はその後も動き続けたということ。平成7年の洪水から閉鎖まで、実に14年ある。洪水が工場を終わらせたのではなかった。
なお、工場がなくなった後の平成30年(2018年)7月豪雨でも、東大洲は二線堤からの越流で再び浸水している(市全体の浸水面積は約1,400ha、被災事業所は959事業所。平成30年10月25日現在の数字で、市が全国防災協会で発表した資料による。同年12月の市議会では「964の事業所の被災が確認されて」と答弁されており、集計の時点によって差がある)。この土地の水との闘いは、今も続いている。
答えを先に書くと、閉鎖の理由は洪水ではなく、世界的な不況と企業再編だった。
会社は2005年にパナソニック四国エレクトロニクスに改称。リーマンショック後の2009年3月、パナソニックは世界で生産拠点を約50カ所減らすリストラの一環として、大洲工場の閉鎖を明らかにした。
当時の従業員は約500人。電源部品・ヒーター・小型モーターの生産は県内の西条・東温の拠点に移管され、従業員は原則配置転換とされた。2010年3月31日、大洲工場は37年の歴史を閉じた。
市議会の会議録がネットに残っていて、当時の空気がそのまま読める。
まず、発表の前。平成21年3月の議会で、議員が「大洲市にとって、同社から撤退されますと税収も減り、また就労の場もなくなる」と危惧し、本当に撤退予定があるのか、税収への影響はどれほどかと尋ねている。
これに対する当時の大森隆雄市長の答弁が、この工場の位置をよく表している。「本市において最も多くの従業員が就業されておる中心企業でありまして、シンボル的存在に変わりがない企業」。
税収への影響についても、個別の会社の額は言えないとしながら、法人市民税はすべて減額、固定資産税も建物の取り壊しと償却資産の撤去があった場合は約6割程度が減収になる見込みだと答えている。
発表は3月27日だった。市長は6月議会で「青天のへきれき」と表現している。副市長は、事前に相談はなく「発表後に訪問を受けて初めて知った」と答弁している。
市長と議長は5月11日に東温市の本社を訪ね、存続を要望。同じ日に県庁へも足を運んでいる。そのときの市長の言葉が、地元の感覚をよく表している。
「当時まだ圃場整備ができないうちにこの工場が完成して、農家の子弟や地権者の奥さん方を雇ってスタートを切ったという、そういう歴史のある当時の松下寿ですから、これがなくなるということはまさかないじゃろうと思うとった」
だが同じ答弁で、市長は「もうこれは避けて通れないと、今はもう腹をくくっております」とも述べている。2カ月で希望から諦めへ変わったことが、記録に残っている。
市は副市長をトップに大洲企業誘致対策会議を立ち上げ、5月7日に第1回、22日に第2回を開いている。市長は跡地の広さを「13町歩あるんです、あれ」と言い、本社側の意向を「一日も早く貸すか同系列の製造業に譲りたい」「3年以内に処分ができたらしたい」と、かなり踏み込んだところまで議会で説明している。
市長は6月議会のはじめに、市民の受け止めをこう述べている。「地域の景気が悪い中、追い打ちをかけられたようで、市民の皆様が受けられました心理的ダメージははかり知れないものがございます」。
当時の大洲の数字も、同じ答弁に並んでいる。ハローワーク大洲の有効求人倍率は、平成19年4月の0.75倍から20年0.61倍、21年4月には0.39倍まで落ちていた。市内の生活保護世帯は平成18年の197世帯から同年5月に239世帯へ、要保護・準要保護の児童生徒も292人から329人へ増えていた。
働いていた人たちはどうなったのか。公表資料で分かるのは、約500人の正社員を西条・東温の2工場へ配置転換する方針だったこと、そして6月時点ではまだ労使交渉中で実際の異動は始まっていなかったことだ。
西条も東温も、大洲からは通える距離ではない。当時、地元の市議・町議らが会社に撤回を申し入れた際の記録によれば、遠隔地のため配転に応じられない従業員には事実上の退職を迫ることになるのではと懸念が出され、会社側は異動できない従業員には再就職先をあっせんしたいと回答している。同じ日、商工会議所の専務理事は「市が撤回を求めるなら、経済団体として協力したい」と述べたとされている。
正直に書くと、実際に何人が大洲を離れ、何人が仕事を辞めたのかを示す数字は、今回の調査では見つけられなかった。働いていた人本人の声を伝える記録も、ネット上には見当たらない。残っているのは、市長や副市長、議員、経済団体といった「記録に残る立場の人」の言葉だけだ。
閉鎖後も、市は跡地を埋めようと動いている。平成22年6月の議会では、市が民間調査会社に委託して、バイオエタノールやリチウム電池・太陽電池など最先端業種の企業209社を抽出し、パナソニック跡地のパンフレットを送ってアンケートをしていると報告されている。
市の経済には、はっきりとした傷跡が残っている。経済産業省の工業統計で大洲市の製造品出荷額を追うと、2005年558億円→2008年400億円→2010年318億円→2011年296億円と、ほぼ半減した。リーマンショックで全国の製造業が落ち込んだ時期と重なるのですべてが閉鎖のせいとは言えないが、最大の工場の退場と重なっているのは確かだ。なお、市税への影響を単独で示す公開資料は見つけられなかった。
出荷額は2022年で442億円と持ち直してきたが、中身は大きく変わった。2021年の大洲の製造業の首位は食料品(116.5億円・30.1%)。電機のまちから、食品と木材のまちになった。
旧工場の住所・東大洲1220-1には、現在Celco Japan株式会社の本社工場がある。
面白いのはその出自だ。Celco Japanのルーツは1964年設立の東予産業で、もともと松下寿電子工業の協力工場として発足した会社だった。つまり、「松下寿」を支えた地元企業が、いまはその跡地を本社にしている。従業員は420人(2025年1月現在)。パナソニックを含む大手の受託生産などを手がけている。
2022年には城戸運送が松下寿工場跡に「東大洲事業所」を開いたと報じられており、跡地はいまも働く場所であり続けている。
調べ終えていちばん印象に残ったのは、この工場が水に浸かる土地で37年動き続け、最後は水ではなく世界経済に終わらされたことだ。そして845人の工場は消えたが、その協力工場だった地元企業が420人の職場として同じ住所に立っている。「まつしたことぶき」の話は、過去の話のようでいて、いまの東大洲の風景に地続きでつながっていた。
この記事をサイトに掲載した日: 2026/08/22