大洲の自由研究 #12
大洲に住んでいると、肱川が増えるのを何度か見る。 では、肱川はこれまで何回あふれてきたのか。 「何年に一度」という言い方をよく聞く。実際の記録と合っているのか。 そこが気になって、残っている記録を端から並べてみた。123件になった。いちばん古いのは1688年である。
肱川がこれまで何回あふれたんか、残っとる記録を端から並べたんよ。
123件になった。いちばん古いのは1688年。
江戸のころは2〜3年に1回あふれよったんよ。
内訳を先に書いておく。1855年までが64件、1886年から1942年までが19件、1943年以降が40件。 このうちこの記事の表に載せたのは、前の2つは全件、1943年以降は流量の記録がある主要洪水22件に絞った。 表の行を数えると105行になるのは、そのためである。
大洲の水害記録には、はっきりした起点がある。 国土交通省の資料に載っている年表の1行目がこれだ[2]。
1688 元禄元 5.30 大洲藩主加藤家記録の量水標大洲市桝形に設置
量水標とは、川の水位を測るための目盛りの柱である。 大洲藩の加藤家が、桝形(いまの大洲市街、肱川橋のあたり)に立てた。 つまり大洲では、江戸時代の元禄から水位を数字で測っていた。これは当たり前のことではない。
そしてこの物差しは、驚くほど長く生き延びる。江戸時代を通じて藩の記録に書き継がれ、明治・大正を越え、 昭和33年(1958年)の記録まで同じ「増水量」という数字で残っている。271年分である。
ここでいう増水量は、平常の水面からどれだけ上がったかという値だ。 1935年ごろまでは尺で書かれ、それ以降はメートルで書かれている。1尺は約0.30m。 資料自身が「29.5尺=8.85m」「33.1尺=9.9m」と併記している箇所があるので、その換算で揃えた[3][8]。
この記事の表に出てくる「増水量」は、全部この物差しの数字である。
数え方を先に書いておく。ここが分かっていないと、あとの数字の意味が変わってしまう。
使った資料は大きく4つある。
1つめは、国土交通省の河川整備計画と河川整備基本方針[1][2]。 ここには「過去の主要洪水の一覧表(大洲地点)」と「水害・治水工事の関係年表」が載っている。 前者は昭和18年以降の22件を流量つきで並べたもの。後者は元禄元年から令和4年までの水害と工事を1本にした年表である。 年表の江戸期の行は12行しかない。
2つめは、四国災害アーカイブス[3]。 四国の災害記録を郷土史・自治体史・学術文献から集めたデータベースである。 ここで「愛媛県/大洲市/風水害」で検索すると1,069件出る。一覧を全108ページたどって重複を除き、1,002件を手元に取った。
3つめは、その1,002件のうち「肱川水害年表」「加藤家年譜」「肱川水害史」「県の量水標」を出典としているもの。 ここに増水量の数字が入っている。元をたどると建設省大洲工事事務所編『大洲工事五十年史』(1994年)の29ページに載っている「肱川水害年表」である。 これを1件ずつ拾って、86イベントの増水量を得た。
4つめは、国土地理院の自然災害伝承碑[10]。石碑そのものの記録である。
数えるときに困ったことも書いておく。
四国災害アーカイブスは同じ洪水を複数の本から別レコードとして収録している。 元禄15年7月28日の洪水だけで6件ある。だから件数をそのまま足すと水増しになる。年月日でまとめて1件にした。
和暦と西暦がずれている行が2つあった。国交省の年表は宝永4年を1709年、嘉永5年を1853年としているが、 宝永4年は1707年、嘉永5年は1852年である。四国災害アーカイブス側は1707年・1852年としている。 ここは西暦のほうを信じて1707・1852に揃えた。
同じ洪水の被害数字が資料によって違うこともあった。 文政9年の増水量は、『大洲工事五十年史』系の資料では33.1尺(9.9m)だが、 『肱川-人と暮らし-』(愛媛県文化振興財団、1988年)では9.3mとなっている[8]。 どちらが正しいかは決められなかったので、系列としては尺の数字が続いている前者を使い、違いがあることをここに書いておく。
そして数えられなかったもの。1855年から1886年までの31年間、増水量の記録が1件も見つからなかった。 1886年の次に増水量が残っているのは1928年で、ここも42年空いている。無いものは無いまま、空欄にしてある。
まず江戸時代。64件ある。長いので折りたたんである。
| 西暦 | 和暦 | 月日 | 増水量 | 分かっている被害 |
|---|---|---|---|---|
| 1688 | 元禄元年 | 5月30日 | 6.9m(23.0尺) | |
| 1688 | 元禄元年 | 7月17日 | 6.9m(23.0尺) | |
| 1689 | 元禄2年 | 7月17日 | 7.17m(23.9尺) | |
| 1689 | 元禄2年 | 7月28日 | 6.9m(23.0尺) | |
| 1689 | 元禄2年 | 8月20日 | 7.14m(23.8尺) | |
| 1702 | 元禄15年 | 7月28日 | 6.9m(23.0尺) | 潰家1,332軒、死者2人 |
| 1702 | 元禄15年 | 8月20日 | 7.5m(25.0尺) | |
| 1704 | 宝永元年 | 7月4日 | 4.77m(15.9尺) | |
| 1707 | 宝永4年 | 8月18日 | 6.57m(21.9尺) | 潰家1,782軒、死者1人 |
| 1708 | 宝永5年 | 5月 | 6.9m(23.0尺) | |
| 1708 | 宝永5年 | 5月5日 | 6.9m(23.0尺) | |
| 1714 | 正徳4年 | 8月8日 | 5.85m(19.5尺) | |
| 1715 | 正徳5年 | 6月21日 | 6.9m(23.0尺) | 御家中はじめ114軒が浸水、床上2尺 |
| 1721 | 享保6年 | 7月15日 | 8.85m(29.5尺) | 須合田の御蔵が床上浸水 |
| 1721 | 享保6年 | 7月16日 | 8.85m(29.5尺) | |
| 1729 | 享保14年 | 9月11日 | 6.6m(22.0尺) | |
| 1741 | 寛保元年 | 7月22日 | 4.8m(16.0尺) | |
| 1742 | 寛保2年 | 8月21日 | 5.1m(17.0尺) | |
| 1743 | 寛保3年 | 7月7日 | 3.9m(13.0尺) | |
| 1744 | 延享元年 | 8月10日 | 6.6m(22.0尺) | |
| 1748 | 寛延元年 | 9月2日 | 6.45m(21.5尺) | |
| 1751 | 宝暦元年 | 9月2日 | 6.45m(21.5尺) | |
| 1757 | 宝暦7年 | 7月26日 | 5.25m(17.5尺) | |
| 1765 | 明和2年 | 8月1日 | 6.3m(21.0尺) | |
| 1773 | 安永2年 | 5月25日 | 7.5m(25.0尺) | |
| 1783 | 天明3年 | 8月12日 | 8.4m(28.0尺) | |
| 1787 | 天明7年 | 4月25日 | 8.91m(29.7尺) | |
| 1788 | 天明8年 | 9月 | 8.34m(27.8尺) | |
| 1792 | 寛政4年 | 7月25日 | 8.25m(27.5尺) | |
| 1796 | 寛政8年 | 8月11日 | 8.46m(28.2尺) | |
| 1801 | 享和元年 | 8月19日 | 7.2m(24.0尺) | |
| 1804 | 文化元年 | 7月26日 | 7.86m(26.2尺) | |
| 1804 | 文化元年 | 8月29日 | 8.7m(29.0尺) | 溺死6人、領内の潰家361軒 |
| 1815 | 文化12年 | 7月7日 | 7.26m(24.2尺) | |
| 1816 | 文化13年 | 8月23日 | 7.35m(24.5尺) | |
| 1816 | 文化13年 | 9月4日 | 7.23m(24.1尺) | |
| 1821 | 文政4年 | 8月1日 | 7.2m(24.0尺) | |
| 1821 | 文政4年 | 8月8日 | 7.65m(25.5尺) | 流死3人、潰家21軒 |
| 1822 | 文政5年 | 1月20日 | 8.25m(27.5尺) | |
| 1822 | 文政5年 | 6月2日 | 8.25m(27.5尺) | |
| 1826 | 文政9年 | 5月21日 | 9.93m(33.1尺) | 流死30人、流家46軒。記録上の最大 |
| 1826 | 文政9年 | 6月6日 | 6.75m(22.5尺) | |
| 1827 | 文政10年 | 6月17日 | 7.5m(25.0尺) | |
| 1828 | 文政11年 | 7月2日 | 6.99m(23.3尺) | |
| 1829 | 文政12年 | 5月24日 | 7.35m(24.5尺) | |
| 1831 | 天保2年 | 5月20日 | 8.4m(28.0尺) | |
| 1832 | 天保3年 | 6月3日 | 7.98m(26.6尺) | |
| 1835 | 天保6年 | 5月14日 | 6.0m(20.0尺) | |
| 1835 | 天保6年 | 5月21日 | 6.0m(20.0尺) | |
| 1836 | 天保7年 | 7月8日 | 6.6m(22.0尺) | |
| 1836 | 天保7年 | 8月4日 | 6.6m(22.0尺) | |
| 1838 | 天保9年 | 7月21日 | 8.1m(27.0尺) | |
| 1846 | 弘化3年 | 6月25日 | 7.8m(26.0尺) | |
| 1846 | 弘化3年 | 6月28日 | 7.8m(26.0尺) | |
| 1846 | 弘化3年 | 7月9日 | 7.8m(26.0尺) | |
| 1846 | 弘化3年 | 7月18日 | 7.8m(26.0尺) | |
| 1848 | 嘉永元年 | 6月13日 | 7.35m(24.5尺) | |
| 1848 | 嘉永元年 | 6月28日 | 7.8m(26.0尺) | |
| 1850 | 嘉永3年 | 5月3日 | 6.75m(22.5尺) | |
| 1850 | 嘉永3年 | 8月7日 | 6.42m(21.4尺) | |
| 1850 | 嘉永3年 | 10月12日 | 6.9m(23.0尺) | |
| 1852 | 嘉永5年 | 8月16日 | 7.8m(26.0尺) | |
| 1852 | 嘉永5年 | 8月22日 | 7.8m(26.0尺) | |
| 1855 | 安政2年 | 7月14日 | 8.25m(27.5尺) |
表A: 江戸期の洪水一覧。空欄は「記録が無い」という意味で、埋めていない[3]
この表から分かることが3つある。
ひとつ。増水量が20尺(6m)を下回る行がほとんどない。 江戸期の記録に残っているのは、藩が書き留めるほどの出水だけだったということだ。小さい出水は最初から数えられていない。
ふたつ。同じ年に2回、3回と続くことがある。 1689年は7月17日・7月28日・8月20日の3回。1846年は6月25日・6月28日・7月9日・7月18日の4回。 梅雨と台風が同じ夏に重なると、こうなる。
みっつ。被害の数字は、ほとんどの行に無い。 潰家や死者の数が書かれているのは1702年、1707年、1804年、1821年、1826年の5回だけである。あとは水位だけが残った。 逆に言えば、藩は被害を書かなくても水位だけは必ず測って書いていた。
いちばん重い行は文政9年(1826年)5月21日である。増水量33.1尺、約9.9m。流死30人、流家46軒。 江戸期の記録でこれを超えるものは無い[8]。
図1: 同じ量水標で測った増水量(1688〜1958年)。この記事の表に載る79点を打った(1943年以降は主要洪水の2点のみ。ほかに一覧化できなかった小さな出水が7件ある)。1935年ごろまで尺、以後メートル。同じ量水標の系列
江戸期の表を眺めていると、当時の人がどう暮らしていたかが気になってくる。国交省の資料に、その答えが書いてある[1]。
大洲盆地は堤防が無かった。だから集落の場所そのものを、洪水を避けて選んでいた。 低平地にはほとんど家が無く、山すそや自然堤防の上の微高地に集まっていた。 昭和42年の航空写真を見ると、それがはっきり分かるという。
肱川右岸の自然堤防上に開けた若宮では、洪水に備えて全ての家が2階建てだった。 床を地面より1m近く高くし、壁には腰板を張り、1階は板張りの間にした家が多かった。 大洪水にそなえて6箇所の「水防場(みずよけば)」を設け、避難用の舟も用意していた。 水防場は一般の住宅より1.5mほど高く盛り土した場所で、「高石垣の家」とも呼ばれた。 神社・寺院・庄屋がこれにあたり、洪水のときの避難場所になった。
藩の側も手を打っていた。2代藩主・加藤泰興(1611〜77年)は治水に力を入れ、水位の観測と、 「ナゲ」と呼ばれる石積みの水制で洪水の流れを制御した。 集落沿いには高さ2mほどの長土手を設け、灌木や真竹・孟宗竹を植えて集落を守った。
このナゲについては、市議会でも説明されている[13]。 2019年3月定例会で副市長が答えているところによると、ナゲは川岸から細長い石積みをやや下流側に向けて突き出させたもので、 水の流れを変え、流勢を弱めて堤防を守る。築造年代ははっきりしないが江戸時代前期とされ、いまも数カ所残っている。 いちばん大きいのは肱川橋のやや上流にある「渡場のナゲ」で、長さ40m・幅5m・水面上の高さ1.5m。 あわせて造られた防水林は、川に近い方からホウライチク、マダケを植え、強度を保つためにエノキを混ぜてある。 エノキは根張りが強く護岸を固め、竹やぶは流木やごみを止めるフィルターの役をした。 この防水林は菅田地区から大和地区にかけて、いまも広い範囲に残っている。
洪水のあとの田畑の境界争いを防ぐため、土地の境を示す境木(さかいぎ)としてボケやマサキが植えられた。 五郎や若宮の地区に今も残るという。
表Aに並んだ64行は、こういう暮らしの上に起きたことである。
ここで、頻度を出してみる。国交省の資料はこう書いている[1]。
江戸時代の大洲藩主加藤家の年譜によると1688年から1860年までの173年間のうち62年間は出水が記録されており、約3年に1回の割合で洪水が発生し
62年 ÷ 173年間 = 2.79年に1回。これは国交省の数字である。
自分でも数えてみた。四国災害アーカイブスから取った1,002件を、タイトル冒頭の和暦(「元禄15年7月28日の洪水」など)から西暦に直す。 1,002件すべて変換できた。そのうえで1688年から1860年の間に、風水害の記録が1件でもある年を数えると、69年あった。
173年 ÷ 69年 = 2.51年に1回(自分で計算した平均間隔である)。
出どころも数え方も違う2つの数字が、2.5年と2.8年に落ちた。自分の数えは暴風だけの年も含むので少し多くなる。 それを差し引いても、江戸時代の大洲は2〜3年に1回、水害の記録がある土地だったと言ってよさそうだ。
次が問題の時代である。
| 西暦 | 和暦 | 月日 | 増水量 | 分かっている被害 |
|---|---|---|---|---|
| 1886 | 明治19年 | 9月11日 | 9.72m(32.4尺) | 記録上2番目の増水量 |
| 1886 | 明治19年 | 9月24日 | 台風。櫛生村須沢で山腹崩壊、39人が犠牲 | |
| 1894 | 明治27年 | 9月11日 | 雨量175mm。肱川で出水被害 | |
| 1896 | 明治29年 | 5月20日 | 雨量150mm。肱川の増水2丈 | |
| 1901 | 明治34年 | 7月14日 | 雨量275mm。肱川流域で特に水害多し | |
| 1903 | 明治36年 | 7月8日 | 雨量150mm。肱川流域に水害 | |
| 1915 | 大正4年 | 6月25日 | 流域で200mm以上。被害の詳細は不明 | |
| 1928 | 昭和3年 | 8月6日 | 7.5m(25.0尺) | |
| 1932 | 昭和7年 | 7月2日 | 4.53m(15.1尺) | |
| 1934 | 昭和9年 | 9月21日 | 5.22m(17.4尺) | |
| 1935 | 昭和10年 | 6月29日 | 4.5m(15.0尺) | |
| 1935 | 昭和10年 | 8月29日 | 5.55m(18.5尺) | |
| 1935 | 昭和10年 | 9月25日 | 5.79m(19.3尺) | |
| 1936 | 昭和11年 | 9月25日 | 4.55m | |
| 1937 | 昭和12年 | 9月11日 | 4.85m | |
| 1938 | 昭和13年 | 8月1日 | 7.43m | |
| 1940 | 昭和15年 | 10月20日 | 2.73m | |
| 1941 | 昭和16年 | 7月25日 | 5.17m | |
| 1942 | 昭和17年 | 9月21日 | 5.91m |
表B: 明治から昭和17年までの洪水(1886-1942)[3][9]
19件しかない。江戸期の64件と比べると、明らかに少ない。 しかも1855年から1886年まで31年、1903年から1915年まで12年、記録が空いている。
ここで「明治・大正の大洲は水害が少なかった」と読んではいけない。
理由は単純である。大洲藩が無くなったからだ。
1871年の廃藩置県で藩が消える。加藤家が代々書き継いできた年譜も、そこで途切れる。 かわりに国が肱川を直接測りはじめるのは、ずっと後だ。 国交省の年表によれば、内務省が改修計画のための調査に着手したのが昭和11年(1936年)、 直轄の改修工事に着手したのが昭和19年(1944年)である[2]。
つまり明治・大正の肱川には、記録を取る主体がいなかった。
数字で見るとはっきりする。四国災害アーカイブスの1,002件を25年ごとに区切って、 「記録のある年が何年あったか」を数えるとこうなる。
図2: 25年ごとの「記録のある年数」(棒)と記録件数(折れ線)。四国災害アーカイブスの1,002件から独自集計
1875年から1899年の25年間で、記録のある年はたった4年しかない。 その前の25年は9年、そのまた前は14年である。 明治になったとたんに、大洲の水害の記録が消えている。
これは統計を扱うときの落とし穴そのものだ。 グラフに「明治は少ない」と出ても、それは川がおとなしかったのではなく、書く人がいなかっただけかもしれない。 肱川の場合、それがほぼ確実に当てはまる。
念のため書いておくと、この空白期にも大きな洪水は起きている。 表Bの1行目、1886年(明治19年)9月11日の増水量32.4尺(約9.72m)は、271年の記録全体で2番目に高い[9]。 年表がスカスカな時代に、記録上2番目の洪水が起きている。
年表を通して見ると、被害の数字が桁ちがいに大きい行が2つある。
昭和18年(1943年)7月24日。低気圧と不連続線が流域に停滞し、7月21日から24日の4日間に年間降雨量の約3分の1が降った。 流域総雨量は本川上流の宇和で755mm。水位は大洲桝形地点で8.6mを記録し、流量は約5,400m³/sと推定されている[2][6]。
被害は、大洲市内で田畑浸水1,876町、住家浸水7,477戸、死傷者131人。 肱川水系全体では流失家屋554戸、全壊家屋396戸、床上浸水6,940戸、床下浸水3,876戸、堤防の決壊・破損59箇所。 国交省の資料は「未曾有の大被害」と書いている。
このとき大量の流木が出て、橋や家屋を壊した。 流木は大洲市街の肱北地区の常盤町にまで襲い、大洲盆地の真ん中の十夜ヶ橋一帯にも流れ込んだという。
昭和20年(1945年)9月18日、枕崎台風。戦時中の山林の乱伐で山が荒れており、豪雨が一瞬で流れ出た。 2年前の洪水で崩れた水源地の各所が再び大崩壊を起こし、土石流となって下流の河床を埋めた。 ようやく復旧したばかりの堤防・護岸が決壊した。
水位は大洲桝形地点で8.79m。流量は約5,000m³/sと推定される。 死傷者152人、床上浸水7,229戸、床下浸水2,686戸[7]。
この2回が、いまの肱川の治水の出発点になっている。 国交省の資料は「本格的な治水事業は、大量の流木により橋や家屋が破壊され、死傷者131人が出た昭和18年7月洪水の翌年、 戦時中の昭和19年に……直轄改修工事に着手したのが始まりである」と書く[1]。
当初の計画は、旧大洲町の主要部と新谷市街地を輪中堤で囲み、残りの平地は遊水地として残す、という局所的なものだった。 大洲盆地の平地部全体を堤防で締め切る計画に変わるのは、昭和36年である。
そして昭和18年は、いまも市内で使われている物差しでもある。 2009年3月の市議会で議員がこう質問している。 「集中豪雨により昭和18年のように水位が上昇をすれば、避難場所に床上浸水する場所があると思いますが、 市としてのお考えを伺います」[15]。 66年前の洪水が、避難所を考えるときの基準になっている。
戦後になると、記録の書き方が変わる。増水量ではなく流量(m³/s)で残るようになる。 国交省が「過去の主要洪水の一覧表(大洲地点)」として整理しているのが次の22件である[1]。
| 年月日(和暦) | 西暦 | 原因 | 大洲地点の流量 | 浸水面積 | 浸水家屋・人的被害 |
|---|---|---|---|---|---|
| 昭和18年7月24日 | 1943 | 低気圧・前線 | 5,400※1 m³/s | 田畑1,876町 | 住家浸水7,477戸/死傷者131人 |
| 昭和20年9月18日 | 1945 | 枕崎台風 | 5,000※2 m³/s | 不明 | 床上7,229戸・床下2,686戸/死傷者152人 |
| 昭和38年8月10日 | 1963 | 台風9号 | 1,800 m³/s | 農地18ha・宅地62ha | 不明 |
| 昭和40年9月17日 | 1965 | 台風24号 | 3,100 m³/s | 田畑668ha | 床上10戸・床下312戸 |
| 昭和45年8月21日 | 1970 | 台風10号 | 2,900 m³/s | 農地340ha・宅地540ha | 床上35戸・床下245戸 |
| 昭和51年9月11日 | 1976 | 台風17号 | 2,100 m³/s | 農地14ha・宅地4ha | 床上1戸・床下24戸 |
| 昭和55年7月2日 | 1980 | 梅雨前線 | 2,000 m³/s | 農地310ha | 床上4戸・床下19戸 |
| 昭和57年7月24日 | 1982 | 梅雨前線 | 2,000※3 m³/s | 農地178ha・宅地3ha | 床上2戸・床下16戸 |
| 昭和57年8月27日 | 1982 | 台風13号 | 3,000 m³/s | 農地707ha・宅地41ha | 床上26戸・床下88戸 |
| 昭和62年7月18日 | 1987 | 梅雨前線 | 3,100 m³/s | 農地444ha・宅地79ha | 床上16戸・床下41戸 |
| 昭和63年6月25日 | 1988 | 梅雨前線・台風4号 | 3,100 m³/s | 農地72ha・宅地14ha | 床上13戸・床下32戸 |
| 平成元年9月19日 | 1989 | 台風22号 | 2,500 m³/s | 農地39ha・宅地1ha | 床上8戸・床下38戸 |
| 平成5年7月28日 | 1993 | 台風5号 | 2,800 m³/s | 農地502ha | 床上3戸・床下26戸 |
| 平成5年9月4日 | 1993 | 台風13号 | 2,400※3 m³/s | 農地267ha | 床上4戸・床下25戸 |
| 平成7年7月4日 | 1995 | 梅雨前線 | 3,200 m³/s | 農地601ha・宅地356ha | 床上768戸・床下427戸 |
| 平成10年10月18日 | 1998 | 台風10号 | 3,300 m³/s | 農地133ha・宅地3ha | 床上2戸・床下29戸 |
| 平成16年8月31日 | 2004 | 台風16号 | 4,200 m³/s | 約839ha | 床上297戸・床下277戸 |
| 平成16年9月29日 | 2004 | 台風21号 | 2,900 m³/s | 約266ha | 床上6戸・床下38戸 |
| 平成16年10月20日 | 2004 | 台風23号 | 3,100 m³/s | 約415ha | 床上1戸・床下9戸 |
| 平成17年9月6日 | 2005 | 台風14号 | 3,800 m³/s | 約713ha | 床上145戸・床下167戸 |
| 平成23年9月21日 | 2011 | 台風15号 | 3,300 m³/s | 約574ha | 床上69戸・床下79戸 |
| 平成30年7月7日 | 2018 | 梅雨前線 | 6,200 m³/s | 約1,372ha | 床上約2,234戸・床下788戸 |
表C: 昭和18年以降の主要洪水22件。※1は氾濫計算による推計値、※2は実績水位からの推計値、※3は観測実績値(ダム調節後流量)。平成30年の浸水戸数は平成30年12月現在の速報値[1]
図3: 大洲地点の洪水流量22件(ダム氾濫戻し)。5,000m³/sの線を越えたのは1943・1945・2018の3回だけ
この流量の列には、大事な注意書きが付いている。 表の見出しは「流量(m³/s)(大洲地点)ダム氾濫戻し」となっている。
ダム氾濫戻しとは、もしダムが無く、途中であふれもしなかったら、大洲地点をどれだけの水が通ったかを計算し直した値である。 実際に川を流れた量ではない。
だから平成30年7月豪雨の行は6,200m³/sだが、大洲第二水位流量観測所で実際に観測された流量は4,442m³/sである。 水位は8.11m[5]。同じ洪水に2つの数字があるのは、この理由による。
ダムのある時代とない時代を1本の表に並べるには、こう揃えるしかない。揃え方まで書いてある表は信用できる。
この表の平成30年の行には、確定値がある。 河川整備基本方針の参考資料に載っている同じ表では、浸水面積が約1,368ha、床上浸水が約2,069戸、床下浸水が789戸に直され、 死者数4名が加わっている[2]。 速報値と確定値で床上浸水が165戸ちがう。同じ役所の同じ表でも、作られた時期で数字が動く。 年表を作るときは、どの時点の版を見ているかを書いておく必要がある。
なお大洲市自身は、復興計画の冒頭で「平成30年7月豪雨は、過去に経験のない甚大な被害により 大洲市民5名の尊い命と多くの財産を奪いました」と書いている[16]。 4と5の差は、時点の違いで説明がつく。市は発災2か月後の平成30年9月の議会で「本市では死者4名」と述べ、 翌年6月の議会では「本市において死者5名」と述べている。あとから災害関連死が加わったものとみられる。
なお、この22件のほかにも国交省の年表には洪水の行がある。 昭和21年7月29日(台風9号)、昭和25年9月14日(キジヤ台風)、昭和29年9月14日(台風12号)、昭和35年6月22日(梅雨前線)、 昭和43年7月2日(梅雨前線・台風10号)、昭和57年の7月2日・7月15日・9月25日、平成元年8月26日、平成2年9月19日[2]。 主要洪水の表に載らなかったぶん、被害の数字は分からない。年表には残っている、というだけである。
戦後の記録には、もうひとつ別の系列がある。1988年以降の水位計が1時間ごとに残している観測記録だ。 そちらは「肱川の水位を38年分、1時間ずつ数えた」という別の記事で扱っているので、この記事では触れない。 この記事が担当するのは、観測機器が無かった時代を含む「記録としての水害史」のほうである。
ここからが本題だ。
肱川の治水計画には、はっきりした目標がある。 昭和48年(1973年)3月に、計画規模を「1/100」とする工事実施基本計画に改定された。 1/100とは、100年に1度の確率で起きる規模、という意味である[1]。
このとき基本高水流量が6,300m³/sと決められた。うち上流のダム群で1,600m³/sを調節し、 計画高水流量を4,700m³/sとする計画になった。 平成15年(2003年)に策定された河川整備基本方針も、この6,300と4,700をそのまま引き継いでいる[2]。
では、記録のほうはどうなっているか。3通りに検算してみた。以下の平均間隔はすべて自分で計算したものである。
検算1: 流量で見る。表Cの22件のうち、5,000m³/s以上は昭和18年・昭和20年・平成30年の3回。 この3回は1943年から2018年の76年間に収まっている。76年 ÷ 3回 = 25.3年に1回。 4,000m³/s以上まで広げると平成16年8月(台風16号、4,200)が加わって4回、19年に1回になる。
計画の6,300m³/sに届いた記録は無い。ただし平成30年7月豪雨の6,200m³/sは、その98%である。 1973年に「100年に1度」として置いた線に、45年後の洪水がほぼ並んだ、ということになる。
検算2: 増水量で見る。1688年から1958年までの271年間、86イベントのうち増水量8.0m以上は17回。 271年 ÷ 17回 = 15.9年に1回である。8m級は「100年に1度」ではない。だいたい16年に1回、起きている。
該当する年を並べるとこうなる。1721・1783・1787・1788・1792・1796・1804・1822・1826・1831・1838・1855・1886・1943・1945。 年と年の間隔は最短1年、最長62年、平均16.0年。平均のまわりに散らばりが大きい。 「16年に1回」と言われても、実際には4年おきに続くこともあれば62年空くこともある。
検算3: いちばん上だけ見る。増水量が9.0mを超えたのは、271年でたった2回である。 1826年(9.93m)と1886年(9.72m)。271年 ÷ 2回 = 135.5年に1回。
これは1/100(100年に1度)と、桁としては合う。 「100年に1度」という言い方は、少なくとも肱川のいちばん上の洪水については、そう外れていない。
ただし、ここには気をつけるべき点がある。増水量は桝形の量水標がゼロとする水面から、どれだけ上がったかの値である。 一方いまの大洲第二水位流量観測所の8.11mは、別に決められた基準面からの高さだ。 この2つの物差しのゼロが同じかどうか、探した資料の中には書かれていなかった。 だから「2018年は1826年より低かった」とは言えない。ここは分からないままにしておく。
言えるのはこうだ。同じ物差しで測れる範囲(1688-1958)で見るかぎり、いちばん高く上がったのは1826年と1886年で、 どちらも観測機器の無い時代である。
紙の記録とは別に、石の記録がある。
国土地理院は「自然災害伝承碑」という地図記号をつくり、 過去の災害を伝える石碑の位置と碑文の内容を公開している。地理院地図で見られる[12]。
大洲市には7基ある[10]。
| 碑の名前 | 建立年 | 所在地 | 伝えている災害 |
|---|---|---|---|
| 須沢追悼碑 | 1889年 | 長浜町須沢丙803 | 土砂災害(1886年9月24日) |
| 肱川治水碑 | 2000年 | 白滝 | 洪水(1995年7月3〜4日) |
| 平成三十年七月豪雨災害 復興祈念碑 | 2024年 | 菅田町菅田(逆なげ橋右岸の堤防付近) | 平成30年7月豪雨 |
| 肱川治水碑 | 2026年 | 東大洲 | 平成30年7月豪雨 |
| 平成三十年(二〇一八)七月七日 浸水三三〇CM | 2025年 | 東大洲 | 平成30年7月豪雨 |
| 平成三十年(二〇一八)七月七日 浸水三五〇CM | 2025年 | 菅田町菅田 | 平成30年7月豪雨 |
| 平成三十年(二〇一八)七月七日 浸水三三〇CM | 2025年 | 肱川町山鳥坂 | 平成30年7月豪雨 |
表D: 大洲市の自然災害伝承碑7基[10]
図4: 伝承碑7基の位置。座標は国土地理院の自然災害伝承碑データから[10]
いちばん古い須沢追悼碑は1889年(明治22年)に建てられた。伝えているのは、その3年前の災害である。 地理院の説明はこうだ。明治19年(1886年)9月24日、台風の襲来により櫛生村須沢では山腹が約270mにわたって崩壊し、 瞬時に山すその人家が埋没・流出した。土砂で家屋の倒壊、田畑の流出が相次ぎ、この災害で39人が犠牲となった。
表Bの2行目、1886年9月24日がこれである。紙の年表に1行だけ残っていた出来事に、石の碑が対応している。
残りの6基は、すべて1995年以降のものだ。 白滝の肱川治水碑(2000年建立)は、平成7年7月3日から4日の梅雨前線豪雨で大洲盆地を中心に 約930戸が浸水したことを伝えている。
この洪水については、資料によって浸水戸数が違う。表Cのもとにした国交省の一覧表は 床上768戸・床下427戸(合わせて1,195戸)とし、四国災害アーカイブスは 床上426戸・床下482戸(合わせて908戸)とする[4]。碑の「約930戸」は後者に近い。 どちらが正しいという話ではなく、数えた範囲が違うのだと思われるが、 その範囲がどこまでなのかは、どちらの資料にも書かれていない。 同じ洪水の同じ「浸水戸数」でも、出どころを書かずに1つの数字だけ引くのは危ない、ということでもある。
そして浸水深を刻んだ碑が3基ある。東大洲で330cm、菅田町菅田で350cm、肱川町山鳥坂で330cm。 2018年7月7日にその場所の水がどこまで来たかを、数字で刻んである。
もうひとつ、登録の日付が興味深い。 須沢追悼碑だけが2019年7月31日の登録で、残りの6基は2026年7月30日に追加されている[11]。 つまりこの1か月ほど前に、大洲市の伝承碑は1基から7基になった。
江戸時代の水害を伝える碑は、大洲市には1基も登録されていない。 年表には64行あるのに、石には残っていない。
念のため他と比べてみた。愛媛県内で自然災害伝承碑の登録があるのは8市町、計27基である。 松山市6、宇和島市4、西条市3、大洲市7、伊予市2、四国中央市1、西予市3、松前町1。 大洲市が県内で最も多い[11]。 ただしこの制度は市町村からの申請で登録されるものなので、「碑が多い」というより「登録した数が多い」と読むのが正確だろう。
肱川の上流にも碑がある。西予市宇和町河内の「昭和十八年七月二十四日 大雨災害被災者慰霊」(2000年建立)は、 昭和18年7月21日から24日の豪雨で河内地区の裏山が崩壊し、土石流が約300m流れ下って民家5戸・15棟が倒壊し、 成人4名と幼児1名が亡くなったことを伝えている[10]。 表Cの1行目、あの昭和18年である。
記録を残す取り組みは、いま大洲でどうなっているのか。市議会の会議録で追えた。
2012年12月定例会で、水害の浸水実績を示す表示について質問が出ている[14]。 答弁によると、平成20年3月に久米地区で「まるごとまちごとハザードマップ」という取り組みが行われた。 平成16年の台風16号による浸水深と避難方向を、地区内の県道・市道の電柱や標識柱など7カ所に12枚表示したものである。
答弁はこの取り組みの目的をこう説明している。 「洪水の記憶を風化させないよう、町じゅうに浸水実績を表示しておくことで、日常の防災意識の高揚、適切な避難の確保を図ろうとするもの」。 そして「今後も過去に浸水被害のあった地区の自主防災組織や住民の方々の意向などを伺いながら検討を進めてまいりたい」と結んでいる。
2019年3月定例会では、平成30年7月豪雨の翌年という時期に、防災学習について質問が出た[13]。 議員は愛媛大学の公開講座で見た資料——渡場のナゲ、水害防備林、高床の若宮地区の神社を地図と写真で解説したもの——を紹介し、 こうした水災の歴史や先人の工夫を市内外に広めるべきではないか、と尋ねている。
副市長の答弁が、この記事の趣旨とほとんど同じことを言っている。
肱川は古来より洪水の多い川であり、肱川流域に住む人々の暮らしはまさに水との戦いの歴史であり、現在でも流域にはその歴史を物語る痕跡が数多く残されております。
そのうえで、地区防災計画に「知恵の伝承」という項目を盛り込み、 地域の特性や過去の災害の歴史の伝承を行ってもらうよう依頼している、と述べる。そして答弁はこう結ばれている。
災害の歴史や先人の知恵というものは、これからの防災対策にもつながるものだと考えており、その掘り起こしには多くの市民の皆様や地域の御協力が必要であり、資料作成等の具体的な方法について今後検討を行ってまいりたい
2019年3月の時点では、まだ「今後検討」だった。
その7年後、2026年7月30日に大洲市の自然災害伝承碑が6基まとめて登録された。 碑が建ったのは2024年・2025年・2026年である。時間はかかったが、記録は増えている。
正直に3つ挙げておく。
1855年から1886年までの31年間と、1903年から1915年までの12年間の増水量。 記録そのものが見つからなかった。無いものは無いまま、空欄にしてある。
桝形の量水標と、いまの水位計の「ゼロ」が同じかどうか。 これが分からないので、「2018年の8.11mは1826年の9.93mより低かった」とは言えない。
江戸期の水害を伝える碑があるかどうか。 1826年に30人が流されたことを刻んだ碑が市内にあるかどうかは、今回調べた範囲では分からなかった。 地理院に登録されていないだけで、市の郷土資料や現地を当たれば見つかる可能性はある。
いちばん意外だったのは、大洲の水害記録がいちばん薄いのは江戸ではなく明治・大正だったことである。
年表を作る前は、なんとなく逆だと思っていた。古い時代ほど記録が粗く、新しくなるほど詳しくなる、と。 実際は違った。1688年から幕末まで、大洲藩は量水標で水位を測り、増水量を尺と寸まで書き残していた。 1721年閏7月6日には「出水2丈9尺7寸4分、死5人、牛馬死9頭」という記録がある。2丈9尺7寸4分は約29.7尺、9m近い。 寸や分の位まで測って書き残す体制が、江戸時代の大洲にはあった。
それが1871年に藩ごと消える。国が肱川を測りはじめるまでの60年ほど、記録は途切れる。 1875年から1899年の25年間で、記録のある年はわずか4年だった。
だから、水害の記録を年表にして「昔は少なかった」「近年は増えた」と読むのは危ない。 年表の密度は、川の様子ではなく、記録を取る人がいたかどうかを映している。 肱川の場合、それがはっきり出ていた。
もうひとつ腑に落ちたのは、「100年に1度」という言い方の意味だ。
1973年に「1/100」として置かれた6,300m³/sという線は、記録を並べてみるとまったく空想の数字ではなかった。 増水量が9mを超えた記録は271年で2回。平均すると135年に1回である。桁は合っている。
ただし「100年に1度だから、あと100年は来ない」という意味ではない。 8m級で見れば平均16年に1回で、しかも1721年と1783年の間は62年空き、1787年と1788年は2年連続だった。 平均間隔は「何年ごとに来る」ではなく「長い目で見ると何回くらいある」という数字である。 これは肱川に限った話ではないが、331年分を1枚に並べてみると、その意味が目で見える。
最後に。この記事の年表は、すでに誰かが記録してくれていたものをつなぎ直しただけである。 加藤家の年譜を書き継いだ人、それを『大洲工事五十年史』に「肱川水害年表」としてまとめた人、 四国災害アーカイブスに1件ずつ入力した人、碑を建てて地理院に申請した人。 331年分がつながって見えるのは、その全部が残っていたからだ。
2018年7月7日の浸水深を刻んだ3つの碑は、たぶん100年後の誰かが同じことをするために立っている。
出典