大洲の自由研究 #17

消えた33の村と町。いまの大洲市は、34の自治体が積み重なってできている

大洲市に久米小学校という学校がある。だが「大洲市久米」という住所は、存在しない。 平小学校もある。「大洲市平」という住所も、無い。 喜多小学校、三善小学校、粟津小学校。この3つも同じだ。校名にある地名が、住所には無い。 現存する12の小学校のうち、5校が「住所には無い地名」を名乗っている。 これは間違いではない。その名前は、住所になる前に自治体の名前だった。

読了目安 20〜25分 公開: 2026/09/03 独自作成の系統図・対応表を含みます
メモう

久米小学校はあるのに、「大洲市久米」いう住所は無いんよ。

いまの12校のうち5校が、住所に無い地名を名乗っとる。

その名前は、住所になる前に自治体の名前やった。消えた町と村は33ある。

いまの大洲市になった34の町村(1889〜2005年) 1889 1910 1930 1950 1970 1990 2005 大洲町 喜多村 平村 久米村 平野村 南久米村 菅田村 大成村 蔵川村 柳沢村 田処村 新谷村 喜多山村 三善村 粟津村 上須戒村 長浜町 喜多灘村 出海村 櫛生村 豊茂村 相生村 柴村 滝川村 宇和川村 大谷村 山鳥坂村 奥南村 大洲村 大洲町 柳沢村 大川村 新谷村 大洲市 大和村 白滝村 長浜町 河辺村 肱川村 肱川村 →1959年から肱川町 河辺村(1951年に分立 ── 唯一の逆向きの枝) 大洲市(2005年〜) ━ 大洲市になった系統 ━ 長浜町の系統 ━ 肱川町の系統 ━ 河辺村の系統 ━ 分立

図1: いまの大洲市になった34の町村の系統図。昭和26年の河辺村の分立だけが、右へ分かれる唯一の枝[4][5][6]

まず、明治22年に戻って全部並べる

いまの大洲市がある場所には、かつて何十もの村があった。 出発点をどこに置くかを決めないと数えられない。この記事は明治22年(1889年)12月15日に置く。 近代的な市町村制度である「市制町村制」が愛媛県で施行された日である。

この日、愛媛県には1市12町284村が置かれた[4]。 喜多郡には3町33村。ここに、翌々年まで西宇和郡だった平野村を足す。 現在の大洲市の区域にあったのは、2町26村の合計28。全部並べるとこうなる。

表1: 明治22年の28町村と、その材料になった村(開く)
明治22年の町村元になった村(カッコは一部のみ)
大洲町大洲町(一部)、柚木村(大部分)
久米村阿蔵村、大洲村、高山村
南久米村北只村、松尾村、梅川村、長谷村、久保村、正信村、稲積村、野佐来村、黒木村、柚木村(一部)
菅田村菅田村、大竹村、宇津村
大成村成能村、森山村
蔵川村蔵川村、宇和川村(一部)
大谷村大谷村(単独)
宇和川村名荷谷村、中居谷村、宇和川村(大部分)
山鳥坂村山鳥坂村、宇和川村・横山村・北表村・只海村の各一部
奥南村川崎村、宮谷村、植松村、橡谷村、中津村、横山村(大部分)
柳沢村柳沢村、藤縄村
田処村田処村(単独)
喜多山村喜多山村、恋木村
新谷村新谷町、新谷村
喜多村中村、大洲常盤町(資料により「大洲町の一部」)、若宮村、五郎村
平村田口村、市木村、徳森村
三善村春賀村、多田村、東宇山村
粟津村八多喜村、米津村、手成村
上須戒村上須戒村(単独)
柴村柴村、下須戒村(一部)
滝川村戒川村、加屋村、大越村
相生村穂積村、下須戒村(一部を除く)、上老松村(大部分)
豊茂村豊茂村(単独)
出海村出海村(単独)
櫛生村櫛生村(単独)
長浜町長浜町、青島、上老松村(一部)
喜多灘村今坊村、黒田村
平野村野田村、平地村(明治22年は西宇和郡。明治32年に喜多郡へ)

読んでいて、見覚えのある名前と、見覚えのない名前が混ざっているはずだ。

菅田、新谷、柳沢、田処、喜多山、上須戒、柴、豊茂、出海、櫛生、長浜、平野。これは今も住所にある。 滝川、相生、奥南、喜多灘、三善、粟津。これは住所には無い。

右の列に並んだ名前も、ほとんどが今の住所に残っている。 八多喜、米津、手成、春賀、多田、東宇山、五郎、若宮、田口、市木、徳森、藤縄、恋木、成能、森山、名荷谷、中居谷。

つまり明治22年にできた村の名前より、その材料になった村の名前のほうが、今よく生き残っている。 これは順番が逆に見えるが、理由がある。次で書く。

その一段下の層 ── 68の村が28になった

明治22年の28町村は、それ以前の68の村・町が寄り集まってできている。 表1の右の列を、重複を除いて数えた結果である(北表村・只海村は大部分が現・内子町側なので除いた)。

いまの大洲市の区域にあった自治体の数 江戸〜明治初期 68 明治22年(町村制) 28 昭和30年〜平成16年 4 平成17年〜 1 68には数え方の幅がある(城下町を1つと数えれば67)。詳しくは「どう数えたか」の章

図2: いまの大洲市の区域にあった自治体の数。68が1になった

68が28になった。これが「明治の大合併」の、大洲での実際の姿だ。

総務省の資料によると、全国の町村数は明治21年の71,314から、明治22年の15,859へ落ちている[2]。 約5分の1。基準は300〜500戸を標準規模とすること(明治21年6月13日 内務大臣訓令第352号「町村合併標準提示」)。

なぜそんなことをしたのか。総務省の説明はこうだ。 江戸時代から引き継がれた自然集落と、教育・徴税・土木・救済・戸籍という新しい事務を処理するのに 必要な規模とが、かけ離れていたから。村を大きくしないと、学校も戸籍も回らなかった。

ここで大事なのは、このとき消えたのは「自治体としての村」であって、「地名としての村」ではなかったことだ。 68の村は、新しい村の大字(おおあざ)として名前を残した。 だから八多喜も春賀も五郎も、いまも住所として生きている。

一方、その上に乗せられた「粟津村」「三善村」「喜多村」という名前は、大字を束ねる器の名前でしかなかった。 器が壊れれば、名前も一緒に無くなる。 上の層ほど、あとで消えやすい。地名の地層は、そういう構造をしている。

昭和の大合併 ── 「8,000人」は中学校1校分の人口だった

明治22年からの65年間、喜多郡の町村は少しずつ数を減らしていく。 明治41年に喜多村と平村が合併して大洲村に。翌42年には柳沢村が田処村を合わせ、 山鳥坂村と奥南村が河辺村になった。 大正10年に大成村と蔵川村が大川村に、大正11年には柴村と滝川村が白滝村に、 豊茂村と相生村が大和村に、新谷村が喜多山村を合わせた。 昭和9年には大洲町・大洲村・久米村が合併して大洲町、 昭和18年には河辺村・宇和川村・大谷村が肱川村になっている[4][5][6]

いま喜多郡に残っているのは内子町だけである。

この動きの中で、桁違いに大きいのが昭和29年から30年にかけての2年間だ。 昭和26年に4町22村=26あった喜多郡の町村が、昭和30年1月には3町2村=5になっている。 さらに、この間に大洲市が郡から抜けている。

引き金は町村合併促進法(昭和28年10月1日 法律第258号)。その第3条に、有名な数字が書かれている。

町村は、おおむね、8,000人以上の住民を有するのを標準とする

なぜ8,000人なのか。総務省の説明が明快である。 約8,000人という数字は、新制中学校1校を効率的に設置管理していくために必要と考えられた人口[2]。 戦後、新制中学校の設置と管理、消防、自治体警察、社会福祉、保健衛生が市町村の仕事になった。 村のままでは中学校1校を持てない。だから村を合併させる。

昭和28年10月30日の閣議決定「町村合併促進基本計画」は、町村数を約3分の1に減らすことを目標に掲げた。 数字はほぼそのとおりになった。全国の市町村数は昭和28年10月の9,868から、 昭和31年9月(町村合併促進法の失効時)には3,975まで落ちている[2]。3年で6割減である。

この記事が扱っている「消えた村の名前」の大半は、この3年で消えた。

昭和29年9月1日、10の町村が1つの市になった

大洲市が生まれた日である。 合併したのは1町9村。大洲町、平野村、南久米村、菅田村、大川村、柳沢村、新谷村、三善村、粟津村、上須戒村[5]

このとき大洲市は、愛媛県で7番目の市になった。 松山(明治22年)、今治(大正9年)、宇和島(大正10年)、八幡浜(昭和10年)、新居浜(昭和12年)、西条(昭和16年)に続く7つ目。 そして昭和の大合併で愛媛県に最初に生まれた市でもある。伊予三島市と川之江市は2か月後、伊予市は4か月後だった[5]

翌年の昭和30年1月1日には、海側で長浜町ができる。 長浜町、喜多灘村、櫛生村、出海村、大和村、白滝村の1町5村

この2つの合併で、いまの大洲市の区域にあった自治体は4つになった。 大洲市、長浜町、肱川村、河辺村。半世紀後の平成17年まで、この4つで固定される。

なお昭和33年8月1日には、逆向きの動きが1件ある。 大洲市の一部(旧・南久米村の鳥坂)が、東宇和郡宇和町に移った[5]。 その宇和町は平成16年に西予市になっているので、鳥坂は今は西予市である。 合併は足し算だけではない、ということの小さな証拠だ。

昭和26年、ひとつだけ枝が「逆」に分かれた

系統図(図1)を見ると、明治22年から伸びる28本の枝は、ほぼ全部が左から右へ合流していく。 1か所だけ、右に向かって分かれる場所がある。 昭和26年(1951年)1月1日、肱川村から河辺村が分立した日だ。

経緯はこうだ。昭和18年4月29日、河辺村・宇和川村・大谷村の3村が合併して肱川村ができた。 だがこの合併は、戦時体制の強化のために強制的に行われたものとされている。 戦後、自治意識の高まりとともに分村運動が起こり、8年後に河辺村が戻った[19]

この「強制」と「分村運動」の経緯は、旧・河辺村についてまとめられた資料に書かれているもので、 市や県の公式資料の中では裏を取れなかった。合併と分立の日付そのものは、県の変遷記録で確認できる[5]

分立したのは北平・川上・川崎・宮谷・横山・植松・橡谷と山鳥坂の一部。 山鳥坂だけが、肱川側と河辺側に分かれて残った。 だから今の大洲市には「肱川町山鳥坂」と「河辺町山鳥坂」が両方ある[1]。 住所の中に、70年以上前の分村の線がそのまま残っている。

そして河辺村は、その後の昭和の大合併には参加しなかった。平成17年まで54年間、村のまま続いた。 肱川村は昭和34年11月3日に町制を施行して肱川町になる。 現在の大洲市の区域で、村から町へ「昇格」したのは、この肱川村だけだ。 大洲町と長浜町は、明治22年の時点ですでに町だった。

2005年1月11日、大洲市・長浜町・肱川町・河辺村が合併して、いまの大洲市ができた。 同じ日、喜多郡には内子町だけが残った。明治22年に3町33村あった郡が、116年かけて1町になった[3]

消えた33の名前は、いまどこにいるか

数えると、明治22年から今までに、いまの大洲市の区域には34の市町村があった。 明治22年に発足した28に、あとから生まれた6つ(大洲村・河辺村・大川村・白滝村・大和村・肱川村)を足した数だ。 このうち自治体の名前として今も生きているのは、「大洲」ひとつだけである。

残る33が、どこに行ったか。1件ずつ突き合わせた結果が下の表だ。

表2: 34の市町村の「いまの残り方」全一覧(開く)
名前自治体だった期間どこに吸収されたかいまの残り方
大洲町1889-1954→ 大洲市市名・字「大洲」・大洲小・大洲こども園・伊予大洲駅
久米村1889-1934→ 大洲町久米小学校・久米コミュニティセンター。字には無い
南久米村1889-1954→ 大洲市南久米コミュニティセンター・南久米保育所。小学校は2013年に閉校。字には無い
菅田村1889-1954→ 大洲市字「菅田町菅田/大竹/宇津」・菅田小・菅田こども園・菅田コミュニティセンター
大成村1889-1921→ 大川村大成自治会のみ。小学校は2014年に閉校。字には無い
蔵川村1889-1921→ 大川村字「蔵川」・大川コミュニティセンター蔵川分館。小学校は2012年に閉校
大谷村1889-1943→ 肱川村字「肱川町大谷」・大谷コミュニティセンター。小学校は2014年に閉校
宇和川村1889-1943→ 肱川村字「宇和川」「肱川町宇和川」の2か所
山鳥坂村1889-1909→ 河辺村字「肱川町山鳥坂」「河辺町山鳥坂」の2か所・山鳥坂ダム
奥南村1889-1909→ 河辺村見つけられなかった
柳沢村1889-1954→ 大洲市字「柳沢」・柳沢コミュニティセンター。小学校は2011年に閉校
田処村1889-1909→ 柳沢村字「田処」・柳沢コミュニティセンター田処分館。小学校は2011年に閉校
喜多山村1889-1922→ 新谷村字「喜多山」・喜多山駅・新谷コミュニティセンター喜多山分館
新谷村1889-1954→ 大洲市字「新谷」「新谷町」「下新谷」・新谷小・新谷保育所・新谷駅・新谷コミュニティセンター
喜多村1889-1908→ 大洲村喜多小学校・喜多保育所。字には無い
平村1889-1908→ 大洲村平小学校・平コミュニティセンター。字には無い
三善村1889-1954→ 大洲市三善小学校・三善コミュニティセンター。保育所は2026年に統合で消滅。字には無い
粟津村1889-1954→ 大洲市粟津小学校のみ。保育所は2026年に「八多喜こども園」へ。字には無い
上須戒村1889-1954→ 大洲市字「上須戒」・上須戒コミュニティセンター。小学校は2015年に閉校
柴村1889-1922→ 白滝村字「柴」・白滝コミュニティセンター柴分館。小学校は2012年に閉校
滝川村1889-1922→ 白滝村滝川樋門(川の名前)のみ。字には無い
相生村1889-1922→ 大和村見つけられなかった
豊茂村1889-1922→ 大和村字「豊茂」・豊茂コミュニティセンター。小学校は2012年に閉校
出海村1889-1955→ 長浜町字「長浜町出海」・出海コミュニティセンター。小学校は2011年に閉校
櫛生村1889-1955→ 長浜町字「長浜町櫛生」・櫛生コミュニティセンター。小学校は2012年に閉校
長浜町1889-2005→ 大洲市字「長浜」「長浜町○○」・長浜小・長浜こども園・伊予長浜駅・長浜支所・長浜コミュニティセンター
喜多灘村1889-1955→ 長浜町喜多灘駅・喜多灘漁港のみ。小学校は2011年に閉校。字には無い
平野村1889-1954→ 大洲市字「平野町野田/平地」・平野小・伊予平野駅・平野コミュニティセンター
大洲村1908-1934→ 大洲町「大洲」に統合された(特殊なケース)
河辺村1909-1943/1951-2005→ 大洲市字「河辺町○○」・河辺小・河辺支所・河辺コミュニティセンター
大川村1921-1954→ 大洲市大川コミュニティセンター。字には無い
白滝村1922-1955→ 長浜町字「白滝」・伊予白滝駅・白滝コミュニティセンター。小学校は2018年に閉校
大和村1922-1955→ 長浜町大和コミュニティセンター・大和保育所。小学校は2016年に閉校。字には無い
肱川村(→肱川町)1943-2005→ 大洲市字「肱川町○○」・肱川小・肱川こども園・肱川支所・肱川中央コミュニティセンター

整理するとこうなる。表2の「いまの残り方」は、市の施設一覧・学校一覧・保育所一覧・支所の組織図と、 市議会の会議録に出てくる地区名・施設名から1件ずつ確認した[8][10][11][12][13][14][16][17][24][26][27][28]

大洲市の字は全部で84ある[1]。 国土交通省の位置参照情報でも大洲市の大字・町丁目は82件で、 例規集にあって位置参照情報に無い「阿部」「下新谷」の2件を足すと一致する[9]。数はこれで確かめられた。

大洲町 喜多村 平村 久米村 平野村 南久米村 菅田村 大成村 蔵川村 柳沢村 田処村 新谷村 喜多山村 三善村 粟津村 上須戒村 長浜町 喜多灘村 出海村 櫛生村 豊茂村 相生村 柴村 滝川村 宇和川村 大谷村 山鳥坂村 奥南村 名前がいまも字として残っている(16) 住所から消えた名前(12) 明治22年の28町村。位置は現在の字の代表点(位置参照情報)

図3: 明治22年の28町村の名前を、いまの地図の上に置いたもの。黒が「いまも字として残る名前」、赤が「住所から消えた名前」。位置は現在の字の代表点(字が無い名前は、その村を構成した字の代表点)。当時の町村の境界は資料が無いため描いていない[9]

市が使っている「地区」の名前を、40件全部見る

大洲市にはコミュニティセンターが40か所ある。本館30と分館10[20]。 もともと公民館だったものが、2024年(令和6年)4月1日に市内全域でコミュニティセンターに変わった[21]。 社会教育法にもとづく利用制限を緩めて、生涯学習だけでなく地域づくりの拠点にするための衣替えだという。

この40か所の名前が、市が実際に使っている「地区」の名前の一覧である。 住所の一覧よりも、こちらのほうが旧村名をよく残している。

表3: コミュニティセンター40件と、名前の出どころ(開く)
コミュニティセンター所在地(字)名前の出どころ
肱南大洲新しい名前(肱川の南)
久米阿蔵旧・久米村
肱北中村新しい名前(肱川の北)
若宮若宮明治22年より前の若宮村(→喜多村)
五郎五郎明治22年より前の五郎村(→喜多村)
田口田口明治22年より前の田口村(→平村)
徳森旧・平村(所在地は旧・徳森村)
平野平野町平地旧・平野村
平野・平地上分館平野町平地旧・平野村
南久米北只旧・南久米村
菅田菅田町菅田旧・菅田村
大川森山旧・大川村(所在地は旧・大成村)
大川・蔵川分館蔵川旧・蔵川村
柳沢柳沢旧・柳沢村
柳沢・田処分館田処旧・田処村
新谷新谷旧・新谷村
新谷・喜多山分館喜多山旧・喜多山村
三善春賀旧・三善村(所在地は旧・春賀村)
八多喜八多喜町明治22年より前の八多喜村(→粟津村)
上須戒上須戒旧・上須戒村
長浜長浜旧・長浜町
沖浦長浜町沖浦旧・長浜町の字
今坊長浜町今坊明治22年より前の今坊村(→喜多灘村)
櫛生長浜町櫛生旧・櫛生村
出海長浜町出海旧・出海村
大和長浜町下須戒旧・大和村(所在地は旧・相生村)
豊茂豊茂旧・豊茂村
白滝白滝旧・白滝村
白滝・戒川分館戒川明治22年より前の戒川村(→滝川村)
白滝・柴分館旧・柴村
肱川中央肱川町山鳥坂旧・肱川村(所在地は旧・山鳥坂村)
正山肱川町名荷谷旧・宇和川村の地名
大谷肱川町大谷旧・大谷村
岩谷肱川町山鳥坂旧・山鳥坂村の地名
予子林肱川町予子林旧・東宇和郡横林村から編入した区域
河辺河辺町植松旧・河辺村
河辺・植松分館河辺町植松明治22年より前の植松村(→奥南村)
河辺・坂本分館河辺町横山旧・奥南村の地名
河辺・大伍分館河辺町三嶋旧・河辺村の地名
河辺・北平分館河辺町北平旧・上浮穴郡浮穴村から編入した区域

表3で太字にした23の名前が、かつての自治体の名前そのものである。 自治体名として消えた33のうち23が、コミュニティセンターの名前として生きている。 住所の字として残っている19より多い。

面白いのは、名前と場所がずれているところだ(表3で背景色を付けた行)。

つまり多くの地区で、建物が建っている場所の地名と、建物に付いた名前が、別の層から来ている。 下の層の名前が住所になり、上の層の名前が施設に付く。地名の地層は、そういうふうに折り重なっている。

一方、コミュニティセンターの名前に採られなかった旧自治体名が11ある。 注目したいのは、喜多・粟津・喜多灘・滝川・奥南が、下の層の名前に置き換えられていることだ。 若宮、五郎、八多喜、今坊、戒川、植松。全部、明治22年に自治体としては消えたはずの村の名前である。 上の器が壊れると、下から古い名前が出てくる。

学校名でしか残らなかった名前と、今年それを失った名前

冒頭の5校に戻る。

現存する小学校校名の地名は住所(字)にあるか
大洲・菅田・新谷・長浜・肱川・河辺・平野ある
久米・喜多・平・三善・粟津無い(旧自治体名)

表4: 現存12小学校の校名と住所の対応[1][8]

学校は村が作ったものだった。だから村の名前が付いている。 村が無くなっても学校は残ったので、名前だけが取り残された。

ただし、これは安全な残り方ではない。 大洲市では2008年からの「小学校統廃合計画」で、小学校が29校から12校に減った (統廃合そのものは別の記事で扱った)。 そのとき喜多灘小学校(2011年)、南久米小学校(2013年)、大成小学校(2014年)、大和小学校(2016年)が閉校している。 この4つは字にも無い名前だった。学校名という居場所を、この十数年で失った。

そして、同じことが今年(2026年)も起きている。 大洲市議会の令和7年12月定例会で、市長がこう説明している[23]。 昭和41年に建てられて老朽化していた粟津保育所と、平成30年7月豪雨のあと休園していた三善保育所。 この2つを統合して、八多喜町に新しい認定こども園を建てた。

新しい園の名前は、大洲市立八多喜こども園。愛称は「なかよしこども園」[25]。 令和7年12月18日に落成し、令和8年1月からは粟津保育所として、 令和8年(2026年)4月から八多喜こども園として運用される。 愛称は三善地区と八多喜地区の住民から公募し、それぞれの地区代表者による選定委員会で決めたという。

ここで起きたことを、この記事の枠組みで言い直すとこうなる。 明治22年にできた「粟津村」と「三善村」の名前が、2026年4月に保育所の名前から消えた。 代わりに選ばれたのは「八多喜」。粟津村を作った3つの村のうちの1つ、一段下の層の名前である。

上の層の名前が消え、下の層の名前が浮かび上がってくる。 この記事で書いてきた100年分の動きと同じことが、いま目の前で1件、起きている。

なお同じ答弁の中で、上須戒コミュニティセンターが旧・上須戒小学校の跡地に建て替えられ、 令和8年3月から使われる見込みだと説明されている[23]。 閉校した学校の跡地に、村の名前を付けた建物が新しく建つ。名前の残り方には、こういう経路もある。

消えた郡境が、ホームの真ん中に残っている

喜多灘の話を、もう少し続ける。 喜多灘駅は、住所でいうと大洲市長浜町今坊にある。 だが駅の敷地は伊予市双海町串にまたがっていて、ホームの中ほどに市境が走っている[18]

平成の合併の前、この線は伊予郡と喜多郡の境だった。 かつては郡境を示す標柱が立っていたが、いまは撤去され、 代わりに大洲市ゆかりの「るり姫」と伊予市ゆかりの「五色姫」の看板が立っている。

行政区画としての喜多郡ができたのは明治11年である(郡という区分そのものは、もっと古い)。 その郡境が、いまもホームの上に線として残っている。 消えた行政区画は、地面から消えるわけではない。

数字で見る ── 全国・愛媛・喜多郡

3つの層を、それぞれの規模で並べておく。まず全国の市町村数[2]

全国の市町村数(1888〜2014年・縦軸は対数目盛) 2,000 5,000 10,000 20,000 50,000 明治21年 71,314 明治の大合併で15,859 昭和28年 9,868 昭和の大合併で3,975 平成26年 1,718 1888 1920 1950 1980 2014 総務省「市町村数の変遷と明治・昭和の大合併の特徴」から作成。明治22年・昭和29〜31年・平成の合併の3回の断崖がある

図4: 全国の市町村数(縦軸は対数目盛)。明治22年・昭和29〜31年・平成の合併という3回の断崖がある

愛媛県はこうなる。 明治22年12月15日(市制町村制施行)に1市12町284村=297[4]。 昭和22年5月3日(地方自治法施行)に6市34町198村=238[5]。 平成11年3月31日に70市町村。現在は11市9町=20市町である[3]

そして現在の大洲市の区域だけを見ると、図2のとおり68 → 28 → 4 → 1。 これが、明治22年からの136年である。

ものさしを揃えて比べてみる。 全国の市町村数は明治21年の71,314から、いまの1,718になった。 割ると、いまの市町村1つあたり、明治21年の町村が平均で約41含まれている計算になる。 大洲市は68である。平均より5割ほど多い。 理由は書けるほど調べられていないが、山あいに小さな村が多かったことと、 昭和28年の基準が「人口8,000人」だったことが効いていると思われる。ここは推測である。

名前の由来は、どこまで分かるか

地名の由来には俗説が多い。出典で確かめられたものだけを書く。

大洲市の公式サイトによると、この一帯は866年に宇和郡から独立して喜多郡になった。 そして喜多郡は矢野郷・久米郷・新屋(にいや)郷の3つの郷に分かれていた、と『倭名類聚抄』にある[7]

ここに「久米」と「新屋」がある。 明治22年の久米村・新谷村と、平安時代の郷の名前が一致している。これは事実として確認できる。 由来かどうかまでは断言しない。ただ、1000年以上前の資料に同じ音の地名が載っていて、 それが明治22年に村の名前として選ばれ、いまも小学校と駅の名前で呼ばれている、という事実の連なりは確かにある。 もう1つの「矢野郷」がどこに残っているかは、調べたが分からなかった。

滝川村については、少しだけ分かる。 市議会の会議録に「白滝地区の滝川」「滝川樋門」という記述がある[15]。 村の名前は、そこを流れる川の名前と同じである。

他の村名の由来は、ネット上で確認できる一次資料が見つからなかった。 『角川日本地名大辞典 愛媛県』などの図書館資料に当たる必要がある。ここでは書かない。

どう数えたか・調べても分からなかったこと

数え方を書いておく。ここが変われば数字も変わる。 対象は「明治22年12月15日以降に存在し、その区域の全部または大部分が現在の大洲市に含まれる市町村」とした。

照合に使った資料は4種類ある。 住所は大洲市例規集「大洲市字の名称」(84件)と国土交通省の位置参照情報(82件)[1][9]。 地区名は市のコミュニティセンター一覧(40件)[20]。 学校名は市の小学校ページ(現存12・閉校17)[8]。 施設名は市のこども園・保育所一覧(11件)と市議会の会議録[22]。 「地元でそう呼ばれている」という話は入れていない。市が公表している文書に名前が出てくるかどうかだけで判定した。

明治22年の町村構成は、2つの独立した資料(都道府県市区町村の変遷情報と、Wikipedia「喜多郡」の変遷表)で 突き合わせて一致を確認した[4][6]

調べても分からなかったことも書いておく。 奥南村と相生村については、いまの大洲市で使われている地名・施設名・地区名を探したが見つけられなかった。 無いと断定はしない。地元では今も呼ばれている可能性が高いし、探し方が足りないだけかもしれない。 昭和28年時点の愛媛県の市町村数も、直接の出典を見つけられなかったので書いていない。 河辺村の分立の「強制合併」「分村運動」という経緯も、公式資料では裏を取れていない。

調べてみて

いちばん意外だったのは、明治22年にできた村の名前より、その材料になった村の名前のほうが生き残っていることだった。 八多喜、春賀、五郎、成能、森山、名荷谷、中居谷、恋木、藤縄。 これらは明治22年に自治体としては消えた村だ。だが大字になったので、いまも住所に書く。 一方、その上に乗った粟津・三善・喜多・平・大成・相生といった名前は、 自治体が無くなると同時に、住所からも消えた。 新しく作られた名前ほど、脆い。

もう1つ。系統図を描いていて、昭和26年の河辺村の分立だけが逆向きなのが目に残った。 28本の枝は、ほぼ全部が合流するだけだ。1か所だけ、いちど合流したものが分かれている。 戦時中に強制的に合併させられ、戦後に分村運動で取り返した村。 その村がその後54年間、昭和の大合併にも加わらずに村のままでいたこと。 そして最後は平成17年に、他の3つと一緒に大洲市になったこと。

地名は、行政の都合で付けられて、行政の都合で消える。 それでも小学校の名前や樋門の名前や駅のホームの線として、少しずつ引っかかって残っている。

そして今年の4月、粟津保育所と三善保育所が八多喜こども園になった。 明治22年の村名が2つ消えて、それより古い村名が1つ浮かび上がった。 地層は、いまも動いている。

大洲市に住んでいて「三善」や「粟津」や「久米」という言葉を使うとき、 それは100年以上前に無くなった村の名前を呼んでいる。そう思って見ると、 住所に無い地名を名乗る小学校が5つもあることの意味が、少し変わって見える。

出典

  1. 大洲市字の名称/大洲市例規集 city.ozu.ehime.jp(平成17年1月11日制定。大洲市の字84件の一覧)
  2. 市町村数の変遷と明治・昭和の大合併の特徴/総務省 soumu.go.jp(全国の市町村数の推移、町村合併促進法第3条の「8,000人」、内務大臣訓令の「300〜500戸」)
  3. 市町村合併に関する情報/愛媛県 市町振興課 pref.ehime.jp(平成11年3月末の70市町村が20市町=11市9町に)
  4. 法的根拠等に基づく変遷 愛媛県/都道府県市区町村 uub.jp(明治22年12月15日の市制町村制施行で1市12町284村。喜多郡の各町村の構成村)
  5. 履歴情報 愛媛県/都道府県市区町村 uub.jp(昭和22年の6市34町198村、大洲市の市制施行日と構成10町村、昭和33年の宇和町への境界変更)
  6. 喜多郡/Wikipedia ja.wikipedia.org(町村制以降の変遷表。fn4と突き合わせて一致を確認)
  7. 歴史 - 市のプロフィール/大洲市 city.ozu.ehime.jp(866年に宇和郡から独立して喜多郡に。矢野郷・久米郷・新屋郷の3郷=『倭名類聚抄』)
  8. 小学校/大洲市 city.ozu.ehime.jp(現存12校と閉校した17校の校名・閉校年)
  9. 位置参照情報ダウンロードサービス/国土交通省 nlftp.mlit.go.jp(大字・町丁目レベル。大洲市の大字・町丁目82件)
  10. 愛媛県市町村合併現況図/愛媛県 pref.ehime.jp(町村合併促進法公布時=昭和28年の市町村名と現在の市町の対応図)
  11. 平成20年3月定例会 会議録3日目/大洲市議会 city.ozu.ehime.jp(「肱南、久米、肱北、若宮、田口、五郎、平、三善」の地区名)
  12. 平成23年12月定例会 会議録3日目/大洲市議会 city.ozu.ehime.jp(「平野、南久米、菅田、大川、柳沢、新谷、八多喜、上須戒」の地区名)
  13. 平成23年6月定例会 会議録2日目/大洲市議会 city.ozu.ehime.jp(「櫛生、出海、豊茂」「沖浦、大和、白滝」「大川」の地区名)
  14. 平成20年9月定例会 会議録4日目/大洲市議会 city.ozu.ehime.jp(「大成自治会長」「大川地区区長会長」の経歴)
  15. 平成23年9月定例会 会議録2日目/大洲市議会 city.ozu.ehime.jp(「白滝地区の滝川樋門」)
  16. 平成21年3月定例会 会議録5日目/大洲市議会 city.ozu.ehime.jp(粟津保育所・三善保育所、長浜・白滝・大和の3保育所)
  17. 平成21年9月定例会 会議録4日目/大洲市議会 city.ozu.ehime.jp(「大和地区」「久米地区」「菅田地区」)
  18. 喜多灘駅/Wikipedia ja.wikipedia.org(所在地は大洲市長浜町今坊、ホーム中ほどに伊予市との市境)
  19. 河辺村(愛媛県)/Wikipedia ja.wikipedia.org(昭和18年の肱川村への合併と昭和26年の分立、河辺村の大字)
  20. コミュニティセンター一覧/大洲市 地域振興課 city.ozu.ehime.jp(本館30・分館10の名称と所在地)
  21. コミュニティセンターについて/大洲市 地域振興課 city.ozu.ehime.jp(令和6年4月1日に公民館がコミュニティセンターへ)
  22. こども園・保育所/大洲市 city.ozu.ehime.jp(市立11施設。大和保育所・南久米保育所・喜多保育所の現存を確認)
  23. 令和7年12月定例会 会議録4日目/大洲市議会 city.ozu.ehime.jp(粟津保育所と三善保育所を統合して八多喜こども園に。上須戒コミュニティセンターの移転)
  24. 令和7年12月定例会 会議録1日目/大洲市議会 city.ozu.ehime.jp(保育所条例・認定こども園条例の一部改正の提案説明)
  25. なかよしこども園(大洲市立八多喜こども園)/大洲市 city.ozu.ehime.jp(所在地は大洲市八多喜町甲177番地1)
  26. 組織でさがす/大洲市 city.ozu.ehime.jp(長浜支所・肱川支所・河辺支所)
  27. 平成20年3月定例会 会議録5日目/大洲市議会 city.ozu.ehime.jp(市が管理する「長浜町喜多灘漁港」)
  28. 河辺コミュニティセンター/大洲市 city.ozu.ehime.jp(所在地は大洲市河辺町植松547番地1)
この記事は「大洲の自由研究」シリーズの17本目です。通常の大洲ノートより 長く、専門的な内容を含みます。シリーズ一覧はこちら