大洲の自由研究 #17
大洲市に久米小学校という学校がある。だが「大洲市久米」という住所は、存在しない。 平小学校もある。「大洲市平」という住所も、無い。 喜多小学校、三善小学校、粟津小学校。この3つも同じだ。校名にある地名が、住所には無い。 現存する12の小学校のうち、5校が「住所には無い地名」を名乗っている。 これは間違いではない。その名前は、住所になる前に自治体の名前だった。
久米小学校はあるのに、「大洲市久米」いう住所は無いんよ。
いまの12校のうち5校が、住所に無い地名を名乗っとる。
その名前は、住所になる前に自治体の名前やった。消えた町と村は33ある。
いまの大洲市がある場所には、かつて何十もの村があった。 出発点をどこに置くかを決めないと数えられない。この記事は明治22年(1889年)12月15日に置く。 近代的な市町村制度である「市制町村制」が愛媛県で施行された日である。
この日、愛媛県には1市12町284村が置かれた[4]。 喜多郡には3町33村。ここに、翌々年まで西宇和郡だった平野村を足す。 現在の大洲市の区域にあったのは、2町26村の合計28。全部並べるとこうなる。
| 明治22年の町村 | 元になった村(カッコは一部のみ) |
|---|---|
| 大洲町 | 大洲町(一部)、柚木村(大部分) |
| 久米村 | 阿蔵村、大洲村、高山村 |
| 南久米村 | 北只村、松尾村、梅川村、長谷村、久保村、正信村、稲積村、野佐来村、黒木村、柚木村(一部) |
| 菅田村 | 菅田村、大竹村、宇津村 |
| 大成村 | 成能村、森山村 |
| 蔵川村 | 蔵川村、宇和川村(一部) |
| 大谷村 | 大谷村(単独) |
| 宇和川村 | 名荷谷村、中居谷村、宇和川村(大部分) |
| 山鳥坂村 | 山鳥坂村、宇和川村・横山村・北表村・只海村の各一部 |
| 奥南村 | 川崎村、宮谷村、植松村、橡谷村、中津村、横山村(大部分) |
| 柳沢村 | 柳沢村、藤縄村 |
| 田処村 | 田処村(単独) |
| 喜多山村 | 喜多山村、恋木村 |
| 新谷村 | 新谷町、新谷村 |
| 喜多村 | 中村、大洲常盤町(資料により「大洲町の一部」)、若宮村、五郎村 |
| 平村 | 田口村、市木村、徳森村 |
| 三善村 | 春賀村、多田村、東宇山村 |
| 粟津村 | 八多喜村、米津村、手成村 |
| 上須戒村 | 上須戒村(単独) |
| 柴村 | 柴村、下須戒村(一部) |
| 滝川村 | 戒川村、加屋村、大越村 |
| 相生村 | 穂積村、下須戒村(一部を除く)、上老松村(大部分) |
| 豊茂村 | 豊茂村(単独) |
| 出海村 | 出海村(単独) |
| 櫛生村 | 櫛生村(単独) |
| 長浜町 | 長浜町、青島、上老松村(一部) |
| 喜多灘村 | 今坊村、黒田村 |
| 平野村 | 野田村、平地村(明治22年は西宇和郡。明治32年に喜多郡へ) |
読んでいて、見覚えのある名前と、見覚えのない名前が混ざっているはずだ。
菅田、新谷、柳沢、田処、喜多山、上須戒、柴、豊茂、出海、櫛生、長浜、平野。これは今も住所にある。 滝川、相生、奥南、喜多灘、三善、粟津。これは住所には無い。
右の列に並んだ名前も、ほとんどが今の住所に残っている。 八多喜、米津、手成、春賀、多田、東宇山、五郎、若宮、田口、市木、徳森、藤縄、恋木、成能、森山、名荷谷、中居谷。
つまり明治22年にできた村の名前より、その材料になった村の名前のほうが、今よく生き残っている。 これは順番が逆に見えるが、理由がある。次で書く。
明治22年の28町村は、それ以前の68の村・町が寄り集まってできている。 表1の右の列を、重複を除いて数えた結果である(北表村・只海村は大部分が現・内子町側なので除いた)。
図2: いまの大洲市の区域にあった自治体の数。68が1になった
68が28になった。これが「明治の大合併」の、大洲での実際の姿だ。
総務省の資料によると、全国の町村数は明治21年の71,314から、明治22年の15,859へ落ちている[2]。 約5分の1。基準は300〜500戸を標準規模とすること(明治21年6月13日 内務大臣訓令第352号「町村合併標準提示」)。
なぜそんなことをしたのか。総務省の説明はこうだ。 江戸時代から引き継がれた自然集落と、教育・徴税・土木・救済・戸籍という新しい事務を処理するのに 必要な規模とが、かけ離れていたから。村を大きくしないと、学校も戸籍も回らなかった。
ここで大事なのは、このとき消えたのは「自治体としての村」であって、「地名としての村」ではなかったことだ。 68の村は、新しい村の大字(おおあざ)として名前を残した。 だから八多喜も春賀も五郎も、いまも住所として生きている。
一方、その上に乗せられた「粟津村」「三善村」「喜多村」という名前は、大字を束ねる器の名前でしかなかった。 器が壊れれば、名前も一緒に無くなる。 上の層ほど、あとで消えやすい。地名の地層は、そういう構造をしている。
明治22年からの65年間、喜多郡の町村は少しずつ数を減らしていく。 明治41年に喜多村と平村が合併して大洲村に。翌42年には柳沢村が田処村を合わせ、 山鳥坂村と奥南村が河辺村になった。 大正10年に大成村と蔵川村が大川村に、大正11年には柴村と滝川村が白滝村に、 豊茂村と相生村が大和村に、新谷村が喜多山村を合わせた。 昭和9年には大洲町・大洲村・久米村が合併して大洲町、 昭和18年には河辺村・宇和川村・大谷村が肱川村になっている[4][5][6]。
いま喜多郡に残っているのは内子町だけである。
この動きの中で、桁違いに大きいのが昭和29年から30年にかけての2年間だ。 昭和26年に4町22村=26あった喜多郡の町村が、昭和30年1月には3町2村=5になっている。 さらに、この間に大洲市が郡から抜けている。
引き金は町村合併促進法(昭和28年10月1日 法律第258号)。その第3条に、有名な数字が書かれている。
町村は、おおむね、8,000人以上の住民を有するのを標準とする
なぜ8,000人なのか。総務省の説明が明快である。 約8,000人という数字は、新制中学校1校を効率的に設置管理していくために必要と考えられた人口[2]。 戦後、新制中学校の設置と管理、消防、自治体警察、社会福祉、保健衛生が市町村の仕事になった。 村のままでは中学校1校を持てない。だから村を合併させる。
昭和28年10月30日の閣議決定「町村合併促進基本計画」は、町村数を約3分の1に減らすことを目標に掲げた。 数字はほぼそのとおりになった。全国の市町村数は昭和28年10月の9,868から、 昭和31年9月(町村合併促進法の失効時)には3,975まで落ちている[2]。3年で6割減である。
この記事が扱っている「消えた村の名前」の大半は、この3年で消えた。
大洲市が生まれた日である。 合併したのは1町9村。大洲町、平野村、南久米村、菅田村、大川村、柳沢村、新谷村、三善村、粟津村、上須戒村[5]。
このとき大洲市は、愛媛県で7番目の市になった。 松山(明治22年)、今治(大正9年)、宇和島(大正10年)、八幡浜(昭和10年)、新居浜(昭和12年)、西条(昭和16年)に続く7つ目。 そして昭和の大合併で愛媛県に最初に生まれた市でもある。伊予三島市と川之江市は2か月後、伊予市は4か月後だった[5]。
翌年の昭和30年1月1日には、海側で長浜町ができる。 長浜町、喜多灘村、櫛生村、出海村、大和村、白滝村の1町5村。
この2つの合併で、いまの大洲市の区域にあった自治体は4つになった。 大洲市、長浜町、肱川村、河辺村。半世紀後の平成17年まで、この4つで固定される。
なお昭和33年8月1日には、逆向きの動きが1件ある。 大洲市の一部(旧・南久米村の鳥坂)が、東宇和郡宇和町に移った[5]。 その宇和町は平成16年に西予市になっているので、鳥坂は今は西予市である。 合併は足し算だけではない、ということの小さな証拠だ。
系統図(図1)を見ると、明治22年から伸びる28本の枝は、ほぼ全部が左から右へ合流していく。 1か所だけ、右に向かって分かれる場所がある。 昭和26年(1951年)1月1日、肱川村から河辺村が分立した日だ。
経緯はこうだ。昭和18年4月29日、河辺村・宇和川村・大谷村の3村が合併して肱川村ができた。 だがこの合併は、戦時体制の強化のために強制的に行われたものとされている。 戦後、自治意識の高まりとともに分村運動が起こり、8年後に河辺村が戻った[19]。
この「強制」と「分村運動」の経緯は、旧・河辺村についてまとめられた資料に書かれているもので、 市や県の公式資料の中では裏を取れなかった。合併と分立の日付そのものは、県の変遷記録で確認できる[5]。
分立したのは北平・川上・川崎・宮谷・横山・植松・橡谷と山鳥坂の一部。 山鳥坂だけが、肱川側と河辺側に分かれて残った。 だから今の大洲市には「肱川町山鳥坂」と「河辺町山鳥坂」が両方ある[1]。 住所の中に、70年以上前の分村の線がそのまま残っている。
そして河辺村は、その後の昭和の大合併には参加しなかった。平成17年まで54年間、村のまま続いた。 肱川村は昭和34年11月3日に町制を施行して肱川町になる。 現在の大洲市の区域で、村から町へ「昇格」したのは、この肱川村だけだ。 大洲町と長浜町は、明治22年の時点ですでに町だった。
2005年1月11日、大洲市・長浜町・肱川町・河辺村が合併して、いまの大洲市ができた。 同じ日、喜多郡には内子町だけが残った。明治22年に3町33村あった郡が、116年かけて1町になった[3]。
数えると、明治22年から今までに、いまの大洲市の区域には34の市町村があった。 明治22年に発足した28に、あとから生まれた6つ(大洲村・河辺村・大川村・白滝村・大和村・肱川村)を足した数だ。 このうち自治体の名前として今も生きているのは、「大洲」ひとつだけである。
残る33が、どこに行ったか。1件ずつ突き合わせた結果が下の表だ。
| 名前 | 自治体だった期間 | どこに吸収されたか | いまの残り方 |
|---|---|---|---|
| 大洲町 | 1889-1954 | → 大洲市 | 市名・字「大洲」・大洲小・大洲こども園・伊予大洲駅 |
| 久米村 | 1889-1934 | → 大洲町 | 久米小学校・久米コミュニティセンター。字には無い |
| 南久米村 | 1889-1954 | → 大洲市 | 南久米コミュニティセンター・南久米保育所。小学校は2013年に閉校。字には無い |
| 菅田村 | 1889-1954 | → 大洲市 | 字「菅田町菅田/大竹/宇津」・菅田小・菅田こども園・菅田コミュニティセンター |
| 大成村 | 1889-1921 | → 大川村 | 大成自治会のみ。小学校は2014年に閉校。字には無い |
| 蔵川村 | 1889-1921 | → 大川村 | 字「蔵川」・大川コミュニティセンター蔵川分館。小学校は2012年に閉校 |
| 大谷村 | 1889-1943 | → 肱川村 | 字「肱川町大谷」・大谷コミュニティセンター。小学校は2014年に閉校 |
| 宇和川村 | 1889-1943 | → 肱川村 | 字「宇和川」「肱川町宇和川」の2か所 |
| 山鳥坂村 | 1889-1909 | → 河辺村 | 字「肱川町山鳥坂」「河辺町山鳥坂」の2か所・山鳥坂ダム |
| 奥南村 | 1889-1909 | → 河辺村 | 見つけられなかった |
| 柳沢村 | 1889-1954 | → 大洲市 | 字「柳沢」・柳沢コミュニティセンター。小学校は2011年に閉校 |
| 田処村 | 1889-1909 | → 柳沢村 | 字「田処」・柳沢コミュニティセンター田処分館。小学校は2011年に閉校 |
| 喜多山村 | 1889-1922 | → 新谷村 | 字「喜多山」・喜多山駅・新谷コミュニティセンター喜多山分館 |
| 新谷村 | 1889-1954 | → 大洲市 | 字「新谷」「新谷町」「下新谷」・新谷小・新谷保育所・新谷駅・新谷コミュニティセンター |
| 喜多村 | 1889-1908 | → 大洲村 | 喜多小学校・喜多保育所。字には無い |
| 平村 | 1889-1908 | → 大洲村 | 平小学校・平コミュニティセンター。字には無い |
| 三善村 | 1889-1954 | → 大洲市 | 三善小学校・三善コミュニティセンター。保育所は2026年に統合で消滅。字には無い |
| 粟津村 | 1889-1954 | → 大洲市 | 粟津小学校のみ。保育所は2026年に「八多喜こども園」へ。字には無い |
| 上須戒村 | 1889-1954 | → 大洲市 | 字「上須戒」・上須戒コミュニティセンター。小学校は2015年に閉校 |
| 柴村 | 1889-1922 | → 白滝村 | 字「柴」・白滝コミュニティセンター柴分館。小学校は2012年に閉校 |
| 滝川村 | 1889-1922 | → 白滝村 | 滝川樋門(川の名前)のみ。字には無い |
| 相生村 | 1889-1922 | → 大和村 | 見つけられなかった |
| 豊茂村 | 1889-1922 | → 大和村 | 字「豊茂」・豊茂コミュニティセンター。小学校は2012年に閉校 |
| 出海村 | 1889-1955 | → 長浜町 | 字「長浜町出海」・出海コミュニティセンター。小学校は2011年に閉校 |
| 櫛生村 | 1889-1955 | → 長浜町 | 字「長浜町櫛生」・櫛生コミュニティセンター。小学校は2012年に閉校 |
| 長浜町 | 1889-2005 | → 大洲市 | 字「長浜」「長浜町○○」・長浜小・長浜こども園・伊予長浜駅・長浜支所・長浜コミュニティセンター |
| 喜多灘村 | 1889-1955 | → 長浜町 | 喜多灘駅・喜多灘漁港のみ。小学校は2011年に閉校。字には無い |
| 平野村 | 1889-1954 | → 大洲市 | 字「平野町野田/平地」・平野小・伊予平野駅・平野コミュニティセンター |
| 大洲村 | 1908-1934 | → 大洲町 | 「大洲」に統合された(特殊なケース) |
| 河辺村 | 1909-1943/1951-2005 | → 大洲市 | 字「河辺町○○」・河辺小・河辺支所・河辺コミュニティセンター |
| 大川村 | 1921-1954 | → 大洲市 | 大川コミュニティセンター。字には無い |
| 白滝村 | 1922-1955 | → 長浜町 | 字「白滝」・伊予白滝駅・白滝コミュニティセンター。小学校は2018年に閉校 |
| 大和村 | 1922-1955 | → 長浜町 | 大和コミュニティセンター・大和保育所。小学校は2016年に閉校。字には無い |
| 肱川村(→肱川町) | 1943-2005 | → 大洲市 | 字「肱川町○○」・肱川小・肱川こども園・肱川支所・肱川中央コミュニティセンター |
整理するとこうなる。表2の「いまの残り方」は、市の施設一覧・学校一覧・保育所一覧・支所の組織図と、 市議会の会議録に出てくる地区名・施設名から1件ずつ確認した[8][10][11][12][13][14][16][17][24][26][27][28]。
大洲市の字は全部で84ある[1]。 国土交通省の位置参照情報でも大洲市の大字・町丁目は82件で、 例規集にあって位置参照情報に無い「阿部」「下新谷」の2件を足すと一致する[9]。数はこれで確かめられた。
図3: 明治22年の28町村の名前を、いまの地図の上に置いたもの。黒が「いまも字として残る名前」、赤が「住所から消えた名前」。位置は現在の字の代表点(字が無い名前は、その村を構成した字の代表点)。当時の町村の境界は資料が無いため描いていない[9]
大洲市にはコミュニティセンターが40か所ある。本館30と分館10[20]。 もともと公民館だったものが、2024年(令和6年)4月1日に市内全域でコミュニティセンターに変わった[21]。 社会教育法にもとづく利用制限を緩めて、生涯学習だけでなく地域づくりの拠点にするための衣替えだという。
この40か所の名前が、市が実際に使っている「地区」の名前の一覧である。 住所の一覧よりも、こちらのほうが旧村名をよく残している。
| コミュニティセンター | 所在地(字) | 名前の出どころ |
|---|---|---|
| 肱南 | 大洲 | 新しい名前(肱川の南) |
| 久米 | 阿蔵 | 旧・久米村 |
| 肱北 | 中村 | 新しい名前(肱川の北) |
| 若宮 | 若宮 | 明治22年より前の若宮村(→喜多村) |
| 五郎 | 五郎 | 明治22年より前の五郎村(→喜多村) |
| 田口 | 田口 | 明治22年より前の田口村(→平村) |
| 平 | 徳森 | 旧・平村(所在地は旧・徳森村) |
| 平野 | 平野町平地 | 旧・平野村 |
| 平野・平地上分館 | 平野町平地 | 旧・平野村 |
| 南久米 | 北只 | 旧・南久米村 |
| 菅田 | 菅田町菅田 | 旧・菅田村 |
| 大川 | 森山 | 旧・大川村(所在地は旧・大成村) |
| 大川・蔵川分館 | 蔵川 | 旧・蔵川村 |
| 柳沢 | 柳沢 | 旧・柳沢村 |
| 柳沢・田処分館 | 田処 | 旧・田処村 |
| 新谷 | 新谷 | 旧・新谷村 |
| 新谷・喜多山分館 | 喜多山 | 旧・喜多山村 |
| 三善 | 春賀 | 旧・三善村(所在地は旧・春賀村) |
| 八多喜 | 八多喜町 | 明治22年より前の八多喜村(→粟津村) |
| 上須戒 | 上須戒 | 旧・上須戒村 |
| 長浜 | 長浜 | 旧・長浜町 |
| 沖浦 | 長浜町沖浦 | 旧・長浜町の字 |
| 今坊 | 長浜町今坊 | 明治22年より前の今坊村(→喜多灘村) |
| 櫛生 | 長浜町櫛生 | 旧・櫛生村 |
| 出海 | 長浜町出海 | 旧・出海村 |
| 大和 | 長浜町下須戒 | 旧・大和村(所在地は旧・相生村) |
| 豊茂 | 豊茂 | 旧・豊茂村 |
| 白滝 | 白滝 | 旧・白滝村 |
| 白滝・戒川分館 | 戒川 | 明治22年より前の戒川村(→滝川村) |
| 白滝・柴分館 | 柴 | 旧・柴村 |
| 肱川中央 | 肱川町山鳥坂 | 旧・肱川村(所在地は旧・山鳥坂村) |
| 正山 | 肱川町名荷谷 | 旧・宇和川村の地名 |
| 大谷 | 肱川町大谷 | 旧・大谷村 |
| 岩谷 | 肱川町山鳥坂 | 旧・山鳥坂村の地名 |
| 予子林 | 肱川町予子林 | 旧・東宇和郡横林村から編入した区域 |
| 河辺 | 河辺町植松 | 旧・河辺村 |
| 河辺・植松分館 | 河辺町植松 | 明治22年より前の植松村(→奥南村) |
| 河辺・坂本分館 | 河辺町横山 | 旧・奥南村の地名 |
| 河辺・大伍分館 | 河辺町三嶋 | 旧・河辺村の地名 |
| 河辺・北平分館 | 河辺町北平 | 旧・上浮穴郡浮穴村から編入した区域 |
表3で太字にした23の名前が、かつての自治体の名前そのものである。 自治体名として消えた33のうち23が、コミュニティセンターの名前として生きている。 住所の字として残っている19より多い。
面白いのは、名前と場所がずれているところだ(表3で背景色を付けた行)。
つまり多くの地区で、建物が建っている場所の地名と、建物に付いた名前が、別の層から来ている。 下の層の名前が住所になり、上の層の名前が施設に付く。地名の地層は、そういうふうに折り重なっている。
一方、コミュニティセンターの名前に採られなかった旧自治体名が11ある。 注目したいのは、喜多・粟津・喜多灘・滝川・奥南が、下の層の名前に置き換えられていることだ。 若宮、五郎、八多喜、今坊、戒川、植松。全部、明治22年に自治体としては消えたはずの村の名前である。 上の器が壊れると、下から古い名前が出てくる。
冒頭の5校に戻る。
| 現存する小学校 | 校名の地名は住所(字)にあるか |
|---|---|
| 大洲・菅田・新谷・長浜・肱川・河辺・平野 | ある |
| 久米・喜多・平・三善・粟津 | 無い(旧自治体名) |
学校は村が作ったものだった。だから村の名前が付いている。 村が無くなっても学校は残ったので、名前だけが取り残された。
ただし、これは安全な残り方ではない。 大洲市では2008年からの「小学校統廃合計画」で、小学校が29校から12校に減った (統廃合そのものは別の記事で扱った)。 そのとき喜多灘小学校(2011年)、南久米小学校(2013年)、大成小学校(2014年)、大和小学校(2016年)が閉校している。 この4つは字にも無い名前だった。学校名という居場所を、この十数年で失った。
そして、同じことが今年(2026年)も起きている。 大洲市議会の令和7年12月定例会で、市長がこう説明している[23]。 昭和41年に建てられて老朽化していた粟津保育所と、平成30年7月豪雨のあと休園していた三善保育所。 この2つを統合して、八多喜町に新しい認定こども園を建てた。
新しい園の名前は、大洲市立八多喜こども園。愛称は「なかよしこども園」[25]。 令和7年12月18日に落成し、令和8年1月からは粟津保育所として、 令和8年(2026年)4月から八多喜こども園として運用される。 愛称は三善地区と八多喜地区の住民から公募し、それぞれの地区代表者による選定委員会で決めたという。
ここで起きたことを、この記事の枠組みで言い直すとこうなる。 明治22年にできた「粟津村」と「三善村」の名前が、2026年4月に保育所の名前から消えた。 代わりに選ばれたのは「八多喜」。粟津村を作った3つの村のうちの1つ、一段下の層の名前である。
上の層の名前が消え、下の層の名前が浮かび上がってくる。 この記事で書いてきた100年分の動きと同じことが、いま目の前で1件、起きている。
なお同じ答弁の中で、上須戒コミュニティセンターが旧・上須戒小学校の跡地に建て替えられ、 令和8年3月から使われる見込みだと説明されている[23]。 閉校した学校の跡地に、村の名前を付けた建物が新しく建つ。名前の残り方には、こういう経路もある。
喜多灘の話を、もう少し続ける。 喜多灘駅は、住所でいうと大洲市長浜町今坊にある。 だが駅の敷地は伊予市双海町串にまたがっていて、ホームの中ほどに市境が走っている[18]。
平成の合併の前、この線は伊予郡と喜多郡の境だった。 かつては郡境を示す標柱が立っていたが、いまは撤去され、 代わりに大洲市ゆかりの「るり姫」と伊予市ゆかりの「五色姫」の看板が立っている。
行政区画としての喜多郡ができたのは明治11年である(郡という区分そのものは、もっと古い)。 その郡境が、いまもホームの上に線として残っている。 消えた行政区画は、地面から消えるわけではない。
3つの層を、それぞれの規模で並べておく。まず全国の市町村数[2]。
図4: 全国の市町村数(縦軸は対数目盛)。明治22年・昭和29〜31年・平成の合併という3回の断崖がある
愛媛県はこうなる。 明治22年12月15日(市制町村制施行)に1市12町284村=297[4]。 昭和22年5月3日(地方自治法施行)に6市34町198村=238[5]。 平成11年3月31日に70市町村。現在は11市9町=20市町である[3]。
そして現在の大洲市の区域だけを見ると、図2のとおり68 → 28 → 4 → 1。 これが、明治22年からの136年である。
ものさしを揃えて比べてみる。 全国の市町村数は明治21年の71,314から、いまの1,718になった。 割ると、いまの市町村1つあたり、明治21年の町村が平均で約41含まれている計算になる。 大洲市は68である。平均より5割ほど多い。 理由は書けるほど調べられていないが、山あいに小さな村が多かったことと、 昭和28年の基準が「人口8,000人」だったことが効いていると思われる。ここは推測である。
地名の由来には俗説が多い。出典で確かめられたものだけを書く。
大洲市の公式サイトによると、この一帯は866年に宇和郡から独立して喜多郡になった。 そして喜多郡は矢野郷・久米郷・新屋(にいや)郷の3つの郷に分かれていた、と『倭名類聚抄』にある[7]。
ここに「久米」と「新屋」がある。 明治22年の久米村・新谷村と、平安時代の郷の名前が一致している。これは事実として確認できる。 由来かどうかまでは断言しない。ただ、1000年以上前の資料に同じ音の地名が載っていて、 それが明治22年に村の名前として選ばれ、いまも小学校と駅の名前で呼ばれている、という事実の連なりは確かにある。 もう1つの「矢野郷」がどこに残っているかは、調べたが分からなかった。
滝川村については、少しだけ分かる。 市議会の会議録に「白滝地区の滝川」「滝川樋門」という記述がある[15]。 村の名前は、そこを流れる川の名前と同じである。
他の村名の由来は、ネット上で確認できる一次資料が見つからなかった。 『角川日本地名大辞典 愛媛県』などの図書館資料に当たる必要がある。ここでは書かない。
数え方を書いておく。ここが変われば数字も変わる。 対象は「明治22年12月15日以降に存在し、その区域の全部または大部分が現在の大洲市に含まれる市町村」とした。
照合に使った資料は4種類ある。 住所は大洲市例規集「大洲市字の名称」(84件)と国土交通省の位置参照情報(82件)[1][9]。 地区名は市のコミュニティセンター一覧(40件)[20]。 学校名は市の小学校ページ(現存12・閉校17)[8]。 施設名は市のこども園・保育所一覧(11件)と市議会の会議録[22]。 「地元でそう呼ばれている」という話は入れていない。市が公表している文書に名前が出てくるかどうかだけで判定した。
明治22年の町村構成は、2つの独立した資料(都道府県市区町村の変遷情報と、Wikipedia「喜多郡」の変遷表)で 突き合わせて一致を確認した[4][6]。
調べても分からなかったことも書いておく。 奥南村と相生村については、いまの大洲市で使われている地名・施設名・地区名を探したが見つけられなかった。 無いと断定はしない。地元では今も呼ばれている可能性が高いし、探し方が足りないだけかもしれない。 昭和28年時点の愛媛県の市町村数も、直接の出典を見つけられなかったので書いていない。 河辺村の分立の「強制合併」「分村運動」という経緯も、公式資料では裏を取れていない。
いちばん意外だったのは、明治22年にできた村の名前より、その材料になった村の名前のほうが生き残っていることだった。 八多喜、春賀、五郎、成能、森山、名荷谷、中居谷、恋木、藤縄。 これらは明治22年に自治体としては消えた村だ。だが大字になったので、いまも住所に書く。 一方、その上に乗った粟津・三善・喜多・平・大成・相生といった名前は、 自治体が無くなると同時に、住所からも消えた。 新しく作られた名前ほど、脆い。
もう1つ。系統図を描いていて、昭和26年の河辺村の分立だけが逆向きなのが目に残った。 28本の枝は、ほぼ全部が合流するだけだ。1か所だけ、いちど合流したものが分かれている。 戦時中に強制的に合併させられ、戦後に分村運動で取り返した村。 その村がその後54年間、昭和の大合併にも加わらずに村のままでいたこと。 そして最後は平成17年に、他の3つと一緒に大洲市になったこと。
地名は、行政の都合で付けられて、行政の都合で消える。 それでも小学校の名前や樋門の名前や駅のホームの線として、少しずつ引っかかって残っている。
そして今年の4月、粟津保育所と三善保育所が八多喜こども園になった。 明治22年の村名が2つ消えて、それより古い村名が1つ浮かび上がった。 地層は、いまも動いている。
大洲市に住んでいて「三善」や「粟津」や「久米」という言葉を使うとき、 それは100年以上前に無くなった村の名前を呼んでいる。そう思って見ると、 住所に無い地名を名乗る小学校が5つもあることの意味が、少し変わって見える。
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