大洲の自由研究 #08
「肱川は支川が多い」「距離が長い」とはよく言われる。でも、どれくらい多いのか。 他の川と比べて何位なのか。そして、そもそも誰がどうやって数えたのか。 流域面積で割って計算し直したら、2位の2.8倍という、 ちょっと信じがたい数字が出てきた。
肱川は支川が多いってよう言うけど、どれくらい多いんやろか。
数えたら474本。全国5位で、流域面積のほうは55位やった。
面積で割り直したら、2位の2.8倍。ちょっと信じられん数字よ。
以前、肱川の源流と合流点をたどる記事を書いた[1]。鳥坂峠から伊予灘まで103km。
源流のすぐそばに宇和海があるのに、そちらへは向かわずに反対側の瀬戸内海を目指す——という、あの話だ。
あの記事を書いたあと、「支川が多い川らしい」という情報は目にしていたのだが、「多い」が具体的に何本で、全国で何番目なのかを確認していなかった。
地元の川について、そこを曖昧にしたままなのが気持ち悪かった。
そこで今回は、数字を全部拾い直すことにした。国土交通省が公表している肱川水系の資料を当たり、全国の一級河川と比べ、さらに自分で計算し直した。
結果として出てきたのは、「多い」なんて言葉では全然足りないという事実だった。
そしてついでに、「川を数えるとはどういうことか」という、調べる前は考えたこともなかった話にも行き着いた。
まず基本のデータを整理しておく。出典は国土交通省の肱川水系河川整備基本方針の 参考資料などによる[2]。
| 項目 | 数値 | 補足 |
|---|---|---|
| 水系等級 | 一級水系 | 全国に109ある一級水系の1つ |
| 幹川流路延長 | 103km | 本川(肱川)の源流から河口までの長さ |
| 流域面積 | 1,210km² | 雨が降ったら肱川に集まってくる範囲 |
| 支川数 | 474河川 | 全国5位。資料によっては475と表記 |
| 水源 | 鳥坂峠(西予市宇和町久保) | 標高460m |
| 河口 | 伊予灘(大洲市長浜町) | 瀬戸内海側 |
| 源流~河口の直線距離 | 約18km | 流路延長の約6分の1 |
| 流域の地形 | 約9割が山地 | 下流部に大規模な平野がない |
| 流域自治体 | 西予市・大洲市・内子町・伊予市・砥部町 | すべて愛媛県内で完結 |
支川数について、資料によって474と475の2つの数字が出てくる。
国土交通省の資料や、同省への取材にもとづく記事では474。一方、河川データをまとめた民間のランキング表では475となっている。
1本の差がどこから来るのかは特定できなかったので、この記事では公式資料に合わせて474を基本とし、計算には影響しない範囲であることを確認したうえで進める。
では、474本という数字は全国でどのあたりなのか。 支川数の多い順に並べたのが次の表だ[3]。
| 順位 | 河川 | 支川数 | 流域面積(km²) |
|---|---|---|---|
| 1 | 淀川 | 962 | 8,240 |
| 2 | 信濃川 | 880 | 11,900 |
| 3 | 利根川 | 810 | 16,840 |
| 4 | 富士川 | 555 | 3,990 |
| 5 | 肱川 | 474 | 1,210 |
| 6 | 石狩川 | 457 | 14,330 |
| 7 | 最上川 | 429 | 7,040 |
| 8 | 木曽川 | 391 | 9,100 |
| 9 | 吉野川 | 356 | 3,750 |
| 10 | 天竜川 | 332 | 5,090 |
支川数では堂々の5位。ここまでは資料に書いてあるとおりだ。 しかし、この表の右端の列を見てほしい。
1位の淀川は流域面積8,240km²、2位の信濃川は11,900km²、3位の利根川にいたっては16,840km²。
それに対して肱川はたった1,210km²。利根川の14分の1、信濃川の10分の1の広さしかない土地に、474本の川が詰まっていることになる。
流域面積で見れば肱川は全国55位で、決して大きな水系ではない。
支川数の順位と流域面積の順位がこれだけ食い違っているなら、面積あたりの支川数を計算すべきだろう。
「同じ広さの土地に、何本の川が流れているか」という密度の指標だ。支川数を流域面積で割って1,000km²あたりに換算した。
図1: 流域面積あたりの支川数。国土交通省のデータをもとにOZU LIFE MEMOが算出・作図
肱川、391.7本。2位の渡川(四万十川)140.5本の、約2.8倍。
正直、計算し直したとき自分の計算を疑った。何度か確かめたが、間違っていない。
支川数の多い上位20水系のなかで、肱川だけが桁の違う密度を持っている。
1位と2位の差が2.8倍というのは、ランキングとして異常な形だ。
普通、こういう順位表は1位と2位が接近していて、下に行くほどなだらかに減っていく。肱川だけが、その形を壊している。
別の言い方をすると、肱川の流域では100km²(10km四方)あたり39本の川が流れている。
大洲市街地から車で20分ほどの範囲に、40本近い川が集まっている、という密度感になる。
地図を見ると、肱川本川に向かって無数の細い青い線が毛細血管のように集まっているのが分かるが、それは印象ではなく事実だった。
では、なぜ肱川流域にはこれほど多くの川があるのか。 答えの中心にあるのは、流域の約9割が山地という事実だ。
川の本数を決めるのは、単純に言えば「谷の数」だ。山があって、そこに雨が降れば、水は谷を刻んで流れ下る。
山が細かく入り組んでいれば、谷も細かく分かれ、川の本数は増える。
逆に、広い平野があれば、そこには谷ができないので川は増えない。
利根川や石狩川の流域には、関東平野や石狩平野という広大な平地がある。
面積は大きいが、その大部分は川を生まない土地だ。一方の肱川流域には、大規模な平野が存在しない。
野村盆地と大洲盆地という小さな盆地はあるが、あとはほぼ山だ。
面積のほぼ全部が「谷を作る土地」になっているから、面積のわりに川の本数が多くなる。
この地形は、治水の観点ではかなり厳しい条件になる。流域全体に降った雨が、474本の支川を通って一斉に本川へ集まってくる。
しかも受け止める平野がないので、水位はすぐに上がる。「水郷肱川」と呼ばれるほど水量が豊かなのは、この構造の裏返しでもある[4]。
肱川のもう1つの特徴が、有名な「遠回り」だ。 源流の鳥坂峠から河口の長浜まで、直線距離はわずか約18km。 ところが実際の流路は103km。約6倍の遠回りをしている。
図2: 肱川の流路の模式図
地図を見た人がまず抱く疑問は、「なぜ近いほうの海に流れないのか」だと思う。
源流の鳥坂峠から宇和海は、すぐそこだ。それなのに肱川は宇和盆地をぐるっと迂回して、野村盆地、大洲盆地を経て、反対側の瀬戸内海に注いでいる。
答えは、山ができるより前から、川がそこにあったからだ。 この考え方を、地形学では「先行河川」という。
普通、川は地形に従って流れる。高いところから低いところへ、山があれば避けて流れるのが自然だ。
ところが肱川は、山を突っ切っている。野村盆地から大洲盆地の間、大洲盆地から瀬戸内海の間には、狭いV字谷が刻まれていて、両岸に山が迫る渓谷になっている。普通の川なら通らないはずのルートだ。
これを説明するのが先行河川という概念になる。 ミツカン水の文化センターの機関誌『水の文化』55号で、 四国西予ジオパーク推進協議会事務局長の高橋司氏が、次のように説明している[4]。
つまり順番が逆なのだ。まず川があり、あとから山が持ち上がってきた。
土地が隆起するスピードより、川が地面を削り下げるスピードのほうが速かったので、川は元のルートを保ったまま、山を切り裂きながら流れ続けることになった。
記事では、河口部の高さ約900mの山を、年1mmほどのペースで削り続けている、という具体的な数字も紹介されている。
年1mmというのは、人間の感覚では止まっているのと変わらない。
でも1万年で10m、100万年で1kmになる。肱川が103kmの遠回りを維持しているのは、この気の遠くなる作業を、地面が持ち上がるより速いペースで続けてきた結果ということになる。
では、なぜ土地が隆起したのか。太平洋のプレートが四国の下に沈み込むとき、斜めに沈み込むために東側が持ち上がり、西側が沈降する。
その動きが、肱川流域の山を作った。つまり肱川の形は、プレートの動きと川の浸食力の競争の結果としていまの姿になっている。
肱川流域の地質も、かなり特殊だ。 同じ『水の文化』の記事によると、流域には性格の異なる地層帯が並んでいる[4]。
古生代の地層。日本で最初に本格的な研究が行われた場所として知られ、その名の由来になった黒瀬川は肱川の支流にあたる。日本列島がまだ形になる前の岩石が、大洲の上流にある。
ジュラ紀の地層。西予市の上流域に分布する。海のプレートが運んできた堆積物(付加体)が陸地に押しつけられてできた。
河口部の地質。高い圧力を受けて変成した岩石で構成され、いまも隆起を続けている。肱川が削り続けている相手がこれにあたる。
興味深いのは、黒瀬川という川の名前が、日本の地質学の用語になっていることだ。
黒瀬川構造帯は、約4億年以上前の岩石が日本で初めて本格的に研究された場所で、その名前は肱川の支流である黒瀬川に由来する。
西予市野村町坂石で肱川に合流する、この地味な支流が、日本列島の成り立ちを解く鍵の1つになっている。
流域の一部は四国西予ジオパークとして日本ジオパークに認定されている。
「ジオパーク」というのは、地質的に重要な場所を保全しながら教育や観光に活かす仕組みで、肱川上流域はその中核エリアの1つになっている。
ここが、今回調べていていちばん驚いた事実かもしれない。
普通の川は、下流に行くほど川幅が広がる。支流が合流して水量が増え、 平野に出て流れがゆるやかになるからだ。 利根川も信濃川も、河口部がいちばん広い。
ところが肱川は逆だ。『水の文化』の記事は、肱川について「河口に近づくにつれどんどん川幅が狭くなる『とても稀な構造』」だと紹介している[4]。
大洲盆地の北端から河口までは、高低差が極めて小さいうえに両岸に山脚が迫る渓谷的な地形になっている。
この構造が何を意味するか。上流の474本の支川から集まってきた大量の水が、いちばん下流で、いちばん狭いところを通らなければならないということだ。
しかも勾配がほとんどないので、水は速く抜けていかない。ペットボトルの口を細くしたようなもので、水は行き場を失って、大洲盆地に溜まることになる。
大洲盆地が常襲の水害地とされてきた理由は、まさにここにある。
降った雨が集まりやすい(支川474本)、受け止める平野がない(山地9割)、そして出口が狭い(渓谷的な下流部)。
この3つが揃っているのが肱川という川だ。2018年7月の西日本豪雨で市街地の約1,372ヘクタールが浸水したのも、この地形的な条件の上で起きた出来事だった。
もう1つ、肱川の特殊さを示す数字がある。 河口部は水深が深く、河川勾配も緩いため、 河川流量が比較的少ない時期には河口から約12km上流まで海水が入り込む[5]。
12kmというのは、長浜の河口から大洲市街地の方向へかなり遡った地点になる。
そこまで塩水が上がってくるということは、その区間の生態系が汽水域(淡水と海水が混ざる環境)の性格を持つということだ。川であって川でない、独特の環境がそこにある。
この現象も、第9章で見た「下流ほど狭く、勾配がない」という構造から来ている。
勾配がないので、川の水が海水を押し返す力が弱い。結果として、潮の満ち引きに乗って海水が上がってくる。
ここからは、この記事のもう1つのテーマに入る。 「474本」という数字は、誰がどうやって数えたのか、という話だ。
前提として知っておく必要があるのが、河川法という法律だ。 日本の川は、この法律によって等級が定められている。
| 区分 | 指定する人 | 内容 |
|---|---|---|
| 一級水系 | 国(政令) | 国土保全上または国民経済上、特に重要な水系。全国に109水系 |
| 一級河川 | 国土交通大臣 | 一級水系に係る河川のうち、大臣が指定したもの。全国13,935河川(平成10年度末時点) |
| 二級河川 | 都道府県知事 | 一級水系以外の水系で、知事が指定したもの |
| 準用河川 | 市町村長 | 一級・二級以外で、市町村長が指定したもの |
重要なのは、「川」というのは自然にあるものであると同時に、法律で指定されるものでもあるということだ[6]。
山の中を流れる小さな沢が「一級河川」になるかどうかは、自然が決めるのではなく、国土交通大臣の指定によって決まる。
肱川は一級水系に指定されている。だから肱川に流れ込む川の多くも一級河川として指定され、国が管理する対象になっている。
「支川474本」という数字は、こうして法的に指定され、台帳に登録された川の本数ということになる。
つまり、この474という数字は自然の数え上げではなく、行政が管理対象として認識している川の数だ。
名もなき沢のすべてを数えたら、もっと多いはずだ。逆に言えば、474本のそれぞれに名前があり、河川台帳に登録され、管理の責任者が決まっている。
では、その474本はどういう単位で数えられているのか。 ここで河川用語の「次数」という考え方が出てくる。
図3: 河川の次数の概念図。国土交通省・自治体の河川用語解説をもとに作成
本川に直接合流する支川を一次支川、一次支川に合流する支川を二次支川、その先を三次支川……と呼び分ける[6]。
肱川で言えば、黒瀬川・河辺川・小田川・矢落川などが一次支川で、それらに流れ込む川が二次支川になる。
474本という数字は、これらをすべて足したものだ。つまり肱川本川に直接注ぐ川が474本あるわけではない。
木の枝のように何段にも分かれた全体の本数、ということになる。
この点を誤解すると、「103kmの間に474本が合流している」という無理な絵を想像してしまう。実際は、流域全体に広がる網の目の総数だ。
なお、「水系」という言葉の定義も確認しておきたい。河川用語では、同じ流域内にある本川・支川・派川、およびこれらに関連する湖沼を総称して「水系」というと定められている。
名称は本川の名前をとってつけられるので、「肱川水系」という言い方は、本川である肱川の名前を代表としてつけた、474本+1本の川の集合全体を指す言葉になる。
474本すべてを追うことはできないが、主要な支川の合流順は資料で確認できる。
源流から河口に向かって並べると、次のようになる[1][5]。
| 支川 | 合流地点 | 備考 |
|---|---|---|
| 黒瀬川 | 西予市野村町坂石 | 河口から約87km。黒瀬川構造帯の名の由来 |
| 舟戸川(船戸川) | 西予市野村町坂石 | 黒瀬川とほぼ同じ地点で合流 |
| 河辺川 | 大洲市 | 旧・河辺村を流れる |
| 小田川 | 大洲市(内子町を経て) | 内子町方面からの流れ |
| 矢落川 | 大洲市東大洲地区 | 市街地に近い合流点 |
| 久米川・大和川ほか | 大洲市 | — |
前の記事にも書いたことだが、大事な点を繰り返しておきたい。源流から河口まで、法律上は全区間が1つの「肱川」だ。
黒瀬川も河辺川も小田川も矢落川も、合流する地点まではそれぞれの名前を持っていて、合流した瞬間から先は肱川の水になる。本川の名前が途中で他の川の名前に変わることはない。
地形の話が続いたので、人の歴史のほうも見ておきたい。 肱川は、大洲の人にとって長く「道」だった。
中下流域は水量があり、急流でもなかったため、かつて河川舟運が発達した[5]。
山で伐り出した木材を筏や舟で流し、河口の長浜に集めて船に積み替える。
長浜が木材の集散地として栄えたのは、この舟運があったからだ。
道路も鉄道もない時代、103kmの遠回りは欠点ではなく、上流の山と海をつなぐ長大な物流路だった。
その名残が、いまも長浜大橋に残っている。1935年に完成したこの橋は、船の通行を妨げないように可動橋として造られた。
橋の一部が跳ね上がって、下を船が通れるようになっている。現役の道路可動橋としては日本最古とされ、国の重要文化財に指定されている。
橋を跳ね上げてまで船を通す必要があったという事実が、当時の舟運の重要性を物語っている。
大洲城が肱川の畔に築かれたことも、この川が「道」だったことと無関係ではない。
川を押さえることが、物流と防御の両方を押さえることだった。いまの大洲城下町が、川に背を向けずに川に面して発達しているのは、その時代の名残でもある。
恵みであると同時に、肱川は繰り返し氾濫してきた川でもある。 記録として残っているものを並べる[5]。
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 1688~1860年 | 大洲藩主の年譜によると、173年間のうち3分の1にあたる62の年で出水の記録が残る |
| 1943年9月19日 | 堤防決壊により全町浸水、45人が死亡 |
| 1959年3月 | 鹿野川ダム完成 |
| 1982年3月 | 野村ダム完成 |
| 2004年 | 度重なる台風で肱川流域が大きな水害を受ける |
| 2018年7月7日 | 西日本豪雨。両ダムが緊急放流、市街地で約1,372haが浸水。大洲市で3人、西予市で5人が死亡(ダムの放流に関わる犠牲者の数え方。市全体の死者は市議会で「4名」、翌年には「5名」と報告されている) |
いちばん重いのは、江戸時代の173年間のうち62年で出水の記録があるという数字だと思う。
約2.8年に1度の割合だ。大洲藩の記録がそれだけ克明に残っているということは、出水が藩政上、無視できない事象として毎回記録されるものだったということでもある。肱川と暮らすというのは、そういうことだった。
1943年の水害では45人が亡くなっている。その後、鹿野川ダム(1959年)、野村ダム(1982年)が建設され、流域の治水は大きく変わった。
それでも2018年の豪雨では、両ダムが緊急放流を行う事態になり、8人の命が失われた。
その責任をめぐる訴訟は現在も係争中で、判決の法的な枠組みについてはこのシリーズの別の記事で扱っている[7]。
2018年以降は、国土交通省四国地方整備局に肱川緊急治水対策河川事務所が置かれ、流域全体を対象とする治水対策が進んでいる[8]。
474本の支川を持ち、山地が9割で、下流ほど狭くなる——というこの川の性格を前提にした対策が求められている。
肱川の話を、水害だけで終わらせたくない。 この川には、他にほとんど例のない気象現象がある。
冬の朝、大洲盆地で発生した霧が、川に沿って一気に長浜へ吹き下ろす。
これが「肱川あらし」だ[5]。霧が川面を這うように流れ、河口から海へ吐き出されていく光景は、長浜大橋のあたりから見ることができ、展望公園も整備されている。
この現象が起きる条件も、実はこの記事で見てきた地形と深く関係している。
内陸に盆地があり(大洲盆地)、そこから河口まで両岸に山が迫る狭い谷が続いている(渓谷的な下流部)。
盆地に溜まった冷気と霧が、狭い谷を通り抜けるときに加速する。
下流ほど川幅が狭くなるという「稀な構造」が、水害の原因であると同時に、肱川あらしの原因でもあるということになる。
同じ地形が、災厄と絶景を両方生んでいる。 調べていて、いちばん腑に落ちたのがこの点だった。
この記事の限界を書いておく。
1つ目。支川数が474なのか475なのか、確定できなかった。
国土交通省の資料と同省への取材にもとづく記事では474、河川データをまとめたランキング表では475。
1本の差の理由は分からなかった。集計時点の違いか、数え方の違いか、単なる転記の差か。
密度の計算にはほぼ影響しないが、確定できなかったことは明記しておく。
2つ目。流域面積の全国順位も、55位と64位の2つの数字が見つかった。
一級水系109水系の中での順位か、それ以外を含む順位かによる差だと思われるが、どちらの基準かを特定できなかった。
3つ目。全109水系すべての支川数と流域面積のデータを入手できなかった。
図1の密度ランキングは、支川数上位20水系だけを対象にした計算だ。
全水系で計算すれば順位が変わる可能性は理論上ある。第4章に書いたとおり、肱川を上回るには相当に極端な条件が必要なので結論は動かないと考えているが、完全な網羅ではないことは書いておきたい。
4つ目。国土交通省の一次資料PDFから、文字を正確に読み取れなかった。
肱川水系河川整備基本方針の参考資料など、いちばん確実な資料がPDFの形式上テキストを抽出できず、検索結果や引用記事を経由して数値を確認する形になった。原典に当たりきれていない箇所がある。
5つ目。474本の支川の名前の一覧は見つけられなかった。河川台帳には全部載っているはずだが、公開されている形では確認できなかった。
「大洲市内を流れる川の名前を全部知りたい」という素朴な望みは、今回は叶わなかった。
6つ目。肱川あらしの発生メカニズムについて、気象学の専門的な説明を確認できなかった。
第16章に書いた「盆地の冷気が狭い谷で加速する」という説明は、一般的な解説と地形データから組み立てた理解であって、学術的な検証を経たものではない。
最後に、調べて分かったことをまとめる。
①支川474本は全国5位。ただし流域面積は全国55位。 この2つの順位の食い違いが、肱川という川の特殊さの入口になっている。
②流域面積あたりの支川数は391.7本/1,000km²で、2位の2.8倍。
支川数上位20水系のなかで、突出した密度を持っている。「川が多い」ではなく「川が密集している」というのが正確な表現だ。
③密集の理由は、流域の約9割が山地で平野がないこと。 面積のほぼすべてが谷を刻む土地なので、面積のわりに川が多くなる。
④直線18kmを103kmかけて流れるのは、山より川が先にあったから。
先行性河川と呼ばれる形で、隆起する山を年1mmのペースで削り続けている。
⑤下流ほど川幅が狭くなる、とても稀な構造を持つ。 集まりやすく、溜まりやすく、抜けにくい。 この構造が水害の常襲と、肱川あらしの両方を生んでいる。
⑥「474本」は自然の数え上げではなく、河川法にもとづく指定の数。
本川に直接注ぐ数ではなく、一次・二次・三次…をすべて合計した本数だ。
調べ終えて思うのは、肱川という川は「たまたま大洲を流れている川」ではなかったということだ。
4億年前の地層の上を、山が持ち上がる前から流れ続け、474本の支流を集めながら、いちばん狭いところを通って海へ出る。
その途中に盆地ができ、そこに人が住み、城が建ち、町ができた。
水害の歴史も、舟運の繁栄も、冬の朝の絶景も、全部この1本の川の形から出てきている。
「肱のように屈曲している」から肱川という名前になったと言われている。
その屈曲は、地面が持ち上がる力に対して、水が103kmかけて抵抗し続けた跡だった。
毎日見ている川が、そういう時間の上を流れているのだと知ると、橋から見下ろす景色が少し違って見えてくる。
出典